怨霊合戦あるいは死者の戦争、その２（後）

2階廊下でのシュガーと謎のシスターの睨み合いは続いていた。彼らは現実世界と重なり合う隠世（冥界とか妄想の世界とかそんなところ）で己が恃む怨霊や英霊たちと共に（現実世界とはあまり関係のない）戦闘を続けていたのだ。シュガーのパーティメンバーであるアイリスは王城内の一室を見繕って寛いでおり、廊下に残っているのはシュガーと謎のシスターだけとなっていた。

シュガーやシスターはその浄眼によって、王城の廊下に重ねて隠世の光景を眺めていたのである。そこは夜の海原であり（シュガーの視界）、夜の砂浜である（シスターの視界）。シュガーが恃む平家の怨霊達とシスターが恃むトロイアの英霊達は「屋島の合戦」の「那須与一の段」の再現を演じ、トロイア側の英霊であるパリスの見事な射撃の腕前に感激した平家の怨霊達は、日暮れとともに沖合へと去って行ったのである。

だが、まだ怨霊合戦は続いていた。平家の怨霊にとって、屋島の合戦の次は（小さな小競り合いを除いて）壇ノ浦の合戦となる。シスターにしてみれば、隠世で屋島の再現を演じたからには、平家側にチェックメイトをかけたも同然のはずであるが、隠世の空には戦闘状態を告げるハデス・サインが輝き、シュガーにしろシスターにしろは隠世から怨霊や英霊を撤退させてはいない。平家の船団は沖合へと去って行ったが、廊下のシュガーは「じゃあまたな」と言って立ち去ったりはしない。

隠世の西の空には宵の明星がそのギラつく輝きを天に誇示し、東の空には静かな月が昇っていた。シスターは瞑目してゆっくりと息を吐く。シスターはシュガーレスの意図を推し量らんと、それまでに読み蓄えてきた平家物語の知識を探り始めた。それは平家が滅亡へと向かう損失の積み重ねであった。

逆落としの事…
　盛俊最期の事…
　　忠度の最期の事…
　　　敦盛最期の事…
　　　　重衝生け捕りの事…
　　　　　首渡しの事…
　　　　　　維盛入水の事…
　　　　　　　那須与一の事…
　　　　　　弓流しの事…
　　　　　志度合戦の事…
　　　　壇ノ浦の合戦の事…

シスターは低く呟く。シュガーはほぉと意外な顔つきとなる。屋島の合戦の後、平家側は源氏側に夜襲を企図するも、武将が先陣争いをしている間に夜が空けてしまい、疲れ果てて寝入ってしまった源氏側を叩けるチャンスをふいにしてしまったのである。それを評して平家物語では「（平家の）運の極め」としているのだ。

シスターはシュガーの意図に思い至る。シュガーは平家の怨霊達と共にかつて叶わなかった夜襲をしかけるつもりなのだ。怨霊の悲憤の慰撫を宿願とする怨霊拳の継承者ならば当然の行動である。シスターは顧みる。シュガーはここまでにかつての平家の運命と違えた小さな勝利を積み上げてきた。平家の怨霊には怨霊合戦として再現した「一の谷」を超えて主要な武将が生き残っている。一の谷から壇ノ浦までの間に失われた、維盛も、重衝も、忠度も、いまだに健在なのである。例え、屋島の次が壇ノ浦とはいえ、主要な武将が健在な平家にとって、それは追いつめられた土壇場ではない。万全なメンバーで望む、名誉挽回のチャンスなのだ。

シスターは目を見開き、隠世のトロイア勢の軍陣を振り返る。トロイア側では、夕餉の支度が終わり、めいめいが自由に夕食をとっていた。硬いパンをスープでふやかし、肉を焼いて神々に捧げていた。シスターはトロイア側の本陣に赴き、寛いでいたヘクトールを始めとしたトロイア側の主要な戦士達に呼びかけた。

トロイア側の本陣は俄にざわめき、対応策について様々な意見がわき上がった。見知らぬ海岸線での夜間上陸は砂浜に限られる。上陸を阻止するべく先回りをしてこれを水際で叩くべし、という上陸阻止論。今宵は斥候を出して平家側の動向の把握に務めて兵を引き、トロイアの本陣はトロイへと退避し、明日以降に陸上にて平家側との決戦を企図する撤退論である。前者の論者は勇猛果敢なヘクトールの霊であり、後者の論者は慎重なプリュダマスの霊であった。

意見は別れ、議論は踊る。シスターが顔を曇らせていると、落ち着き払った様子のパリスが議場へと姿を現した。昼間の戦闘において見事扇を弓矢で射落としたパリスからは、余裕と気品が漲っていた。かつてメネラオスに怯えて敵前から逃げ出したパリスをヘクトールが「けしからんパリスめ」と罵っていた面影は最早なく、その立ち居振る舞いは「神とも見まごう」の形容詞に相応しいといえた。

パリスはといえばいわゆる「残念なIKEMEN」の代名詞であった。だが、今はトロイアの諸公達は皆パリスからものすごく頼りになるオーラを感じており、衆目はパリスに集ってその言葉を待つ。パリスは穏やかに語り始めた。その声は優しげで人の心を落ち着かせる響きがあった。

トロイアの将校達はその滑らかな弁舌にほぅと唸りを上げる。弟に意を異にされたヘクトールは不思議と不愉快さは感じず、うむと頷くと、パリスの目を見据えて落ち着いた様子で反駁を試みた。

ヘクトールは天を仰ぐ。そしてプリュダマスに笑みを浮かべた。ヘクトールの霊は思い出したのだ。かつて己がプリュダマスの献策を聞き入れていればな、と何度も後悔したことがあることを。ヘクトールの霊は頷いて全軍に下知を下す。親しく共に育った親友であるプリュダマスの言葉は中々聞き入れることができないヘクトールの霊であったが、弟であり、そして今の「神と見まごう」パリスの言葉ならば、不思議と聞き入れることができたのである。

トロイア側の諸将は立ち上がり、忙しく帰参の準備を始めた。兄であるパリスの変わり振りをうむうむと嬉しそうに眺めていた弟のデーイボポスは、事の次第を見守っていたシスターに呟く。

パリスはヘクトールらに付き従って今後の戦略について確認しあっており、パリスがヘクトールの霊と同じ向きに歩いて行く姿を見送って、シスターも「ええ存じておりますよ」と満ち足りた様子で呟きを返すのであった。

かくしてトロイア側は平家側との対戦を避けてトロイアに帰還し、能登守教経を大将としたシュガーら平家側の夜襲は空振りに終わった。トロイア側は鮮やかな手並みで引き上げており、シュガーたち平家側は、彼方の城塞都市の防壁の上に炊かれた明かりを遠目にながめやることしかできなかった。天空のハデス・サインは揺らめいて消え、こうして平家の怨霊とトロイアの英霊との怨霊合戦/死者の戦争は一旦の終結を見たのであった。

2階廊下でのシュガーとシスターの睨み合いも終わった。シュガーは笑みを浮かべて腕組みを解き、シスターもミステリアスな微笑を浮かべて一礼する。そんな２人の耳元に今日も今日とて冥府からの声が届く。暗く冷ややかな廊下には場違いな、春の野原を吹く風のごとき明るく能天気な声であった。

シュガーとシスターは同じタイミングで宙空を見上げて呟く。

２人は互いに見つめ合って小一時間ばかり立ちぼうけのままだったり、意味不明な笑みを浮かべたり、変なタイミングで呟いたりする、端から見ればかなり危ない人達ですが、冥府業界の人間なのでこんなもんなのです。指とか刺すのはやめてあげてほしい。

シュガーは怨霊と会話をしているようです

シュガーは怨霊と会話をしているようです…

シュガーは時々意味不明なことを呟きますが、
　怨霊と会話をしているのです。気にしてはいけません。