怨霊合戦あるいは死者の戦争、その２（中）

2階廊下でシュガーと謎のシスターは互いに睨み合って対峙していた。シュガーはすでにマルクスを突破し、その日の攻城の帰趨は決したわけであったが、彼らは現実世界と重なり合う隠世での戦闘を続けていたのだ。シュガーやシスターはその浄眼によって、タイルの廊下で１人蚊帳の外のアイリスとに重なって映る、隠世の光景を眺めていたのである。

海上と陸上とで対峙する平家とトロイアの両軍であるが、時はまさに平家物語での「那須与一の事」の再現となっていた。岸から７０メートルほどの海上の平家の小舟には扇の竿がたち、歳若い美女がトロイア側へ手招きをしていた。トロイア側の総大将であるヘクトールの霊から扇を射よとの命を受けたパリスは波打ち際で小舟の様子を伺っていた。パリスには平家側からの狙撃に備えて、その弟であるデーイポポスが盾を構えて護衛についている。折しも北風烈しく吹き付けて寄せる波も高い。沖には平家船を一面に並べて見物する。陸にはトロイア勢盾を並べてこれを見る。シュガーは小舟に乗り込み、静かな面持ちでパリスを眺めていた。

トロイアの本陣でヘクトールの霊の傍らに控えているシスターは、怨霊合戦の性質から鑑みて、屋島の再現に臨むシュガーには隠された意図があるのではないかと危惧しているのであった。射撃手のパリスを逆に狙撃するのか、あるいは、別働隊を派遣して電撃的な上陸を果たすのか、ともあれ警戒するべき状況であると心得ていた。

当のパリスは小舟の扇をいかに射るべきか難儀していた。海上には風があり波がたち、揺れる扇とのタイミングを合わせるのは並大抵のことではおぼつかない。恨めしげに波間を眺めやり、パリスはため息をついて弱音を吐く。世界一の優男であると評されるパリスではあるが、自慢の美しい黄金の髪の毛もその意気のない態度のためか、潮風でヘタれている。

パリスを護衛するデーイポポスはこれに憤りをもって応えた。

デーイポポスは平家側からの狙撃に備えて警戒を怠らず、振り返りもせずに言葉を続ける。

デーイポポスはそう言い終えると口をつぐんだ。パリスに聞こえてくるのはもはや波と風の音だけである。弟の言葉に胸を打たれたパリスは意を決して矢を矢筒から抜き、弓につがえと引き絞る。

パリスが祈年すると、風が弱まり、波が低くなった。この夕暮れ時の屋島ならば射手が神に祈ればそうもなろう。パリスは矢を放ち、矢はひゅんと海上を飛んで、扇を射切った。扇は空を舞い、夕日を受けてキラキラと2度、3度と輝き、波の中へと吸い込まれていった。

平家側は船端を叩いて感じ取り、トロイア側は槍を掲げてどよめいた。パリスは沖の小舟を見やり、ただ、ふぅ、とだけ息を吐いた。デーイポポスは頷き、ヘクトールの霊もプリュダマスの霊も誇らしげに手を打ち鳴らし、配下の諸侯も槍を掲げてパリスを讃えるのであった。

ただ、謎のシスターは平家側の動向を静かに眺めていた。屋島合戦ではもう一射ある。感激した平家側の武者が船上で舞を舞うのだが、義経の命令を受けた那須与一によって射殺されるのである。小舟では歳若い女房が扇を支えた竿を片付け、齢５０ほどの黒革縅鎧を着た１人の武者が舞いを始めていた。男の名は十郎兵衛尉家員。平家物語の弓流しの段において射殺された男である。

シスターは眉をひそめてシュガーの動向を伺うしかなかった。トロイア側は地の利を得ており、兵力的にも平家側に優っているはずなのに、シスターには何かがまずい気がしていた。トロイア側の将兵も先が読めずざわめきはじめた。パリスの霊は本陣を翻ってヘクトールの霊に手振り身振りで「あれを射よと？」と問う。シスターからの制止を受けて、ヘクトールの霊は「しばし待て」と制した。

トロイア側が逡巡している間に、武者の舞いはひとしきり終わってしまい、小舟ではシュガーと女房が老武者の兜に何かの細工をしていた。リンゴである。シュガーは兜にリンゴをくっつけていたのだ。そして、歳若い女房が陸に向かって呼びかける。小舟から陸まで海上をよく通る声であった。

トロイア側に唖然とした空気が流れ、平家側の意図を計りかねた将兵にざわめきが起こるも、小舟の女房は楽しげに陸に向かって呼びかけを続けていた。

将兵たちは総大将であるヘクトールの顔を見やった。そこは総大将である。ヘクトールの霊はニヤと笑い、ハハハと豪快に笑い始めた。

ヘクトールの霊は謎のシスターにそうだろう？と問うと、シスターは瞑目して頷く。

ヘクトールの霊は本陣からパリスに呼びかける。

燃えるような瞳でヘクトールの霊はパリスに語りかけた。

パリスの霊はヘクトールの燃える瞳と言葉によって鼓舞され、力強くうなずいた。その様は沸き立つ雲のよう。再びパリスが小舟に相対すると、小舟はさきほどよりも少し沖に流されてしまっており、難度は先の扇よりも高まっている。パリスは再び矢をつがえ、再び神に祈った。しかし、アポロンは2度は奇跡を起こしてはくれない。風は吹き小舟は揺れる。パリスは風だけに意識を集中させ、じっと風が止むのを待った。風や波には癖がある。パリスはそのことを1射目に学んでいた。一瞬風が弱まり、その機を逃さずパリスは矢を放った。矢は海上をひゅんと飛び、老武者の頭のリンゴをスパンと射抜く。パリスは一射目のイメージから射程の調整を見事にやってのけたのである。

平家側、トロイア側の双方からどよめきが起り、あちこちで金物を打ち鳴らしてパリスを讃える音が響き渡った。ヘクトールの霊は両手を高々と掲げて雄叫びを上げた。家員の霊は喜びに顔をくしゃくしゃにして天を仰ぐ。双方の陣営からパリスコールが巻き起こり、それはしばらく止まなかった。

そして、シュガーと女房の乗ったゆっくり沖の平家の船団へと漕ぎ出しはじめた。徐々に日は暮れていき、砂浜は何事もなく薄闇の中に沈もうとしていた。ふと、平家の船団に１つの灯火が立ち、ぱちぱちと点滅を始めた。ヘクトールの霊が「あれはどういう意味か？」とシスターに問う。

ヘクトールの霊はふむと息を吐き「奴らは何の謀もなくただ興のためだけに扇を発てたというのか？　平家の怨霊はお人好しのお坊ちゃんぞろいだと聞いていたがこれほどとはな！」と呆れたように頭をふった。ヘクトールの霊は平家側の監視の任務を１人の将校に任じ、残りの配下には戦闘態勢を解くように伝えた。平家の船団は陸からはるか沖合へと離れてしまい、トロイアの将兵達は槍を置き、兜を脱ぎ、あちこちで煮炊きの煙が立ち上る。

隠世での太陽の最後の残照を横目に、謎のシスターは腕を組み人差し指と親指で顎をさすりつつ、沖へと去りつつある平家の船団を見つめていた。平家の船団からトロイア勢への信号に使われた灯火は消し去られ、火事を起こす心配のない怨霊の鬼火が無数に船団の回りを彷徨い、暗い海の道しるべとなっているようであった。

シスターはふぅとため息をつき、２階廊下で対峙していたシュガーに語りかけた。薄暗い廊下にシュガーは凛と立ち、先ほどと変わらず爛々とした瞳をシスターに向けていた。

シュガーは笑みをもって応える。

シスターは一瞬鋭い視線をシュガーに向けるものの、すぐに瞑目してゆっくりと息を吐く。隠世の西の空には宵の明星がそのギラつく輝きを天に誇示し、東の空には静かな月が昇っていた。シュガーと謎のシスターとの（一見して何をするわけでもない）対峙は（蚊帳の外のアイリスを放置して）まだ続く様相であった。

シュガーは怨霊と会話をしているようです

シュガーは怨霊と会話をしているようです…