声があった。
　それは耳に届くようなものではなかった、ただ呼んでいるとだけ知れる呼びかけ、音としてではなく到来する手招き。
　彼は笑った。
　いましも崩れるような物音で。
　彼は応答するだろう。
　許しの手招き、その仕草にこたえて。　


　静まり返る暗闇。
　少なくともしばらくの間、彼女にはそのように感じられただろう。
　沈黙は長く、錆びついて、とうに消えたはずの呼びかけがこだまするかのよう。

　静けさは無音の響きを持って耳朶を打つ。
　そこは深く無明であった。
　
　どれほど経ったころだろうか——。
　ふいに、鋭く何かの軋むような音が、虚空に生まれた。

　それは彼女からひどく遠いところに現れたのかも知れず、それともごく間近、肌を掠めるほどの空点に鳴ったものかも知れない。
　彼女は、きっとその音に覚えがあるだろう。

　不可視の刃が追い縋る。
　ガチン、と　何か巨きな歯の鋭く噛み合うような音。

「……やあ」

　近く遠く、どこともはかり難いいずれかの場所から、声がした。
　もしかすると、彼女はその声に、何がしか奇妙なものを感じたかも知れない。
　ほんのわずかの変調を。
　彼の声は微細に割れ、どこか血の滴るような響きがあった。

「フィリー。
　呼んでくれるとは、嬉しいね。
　……待たせて、しまっただろうかな」

　細切れになった声の断面。
　言葉を取りこぼすような音をして。






「こんばんは。
　きてくれて、どうもありがとうございます。
　何故か、こうすれば会える気がしたんです。
　ねえ、ヤールさん。
　あなたには、幻覚というものがある？」

　彼女は言った。

「そこにあるかのように、焼き付いて離れない。
　ヤールさんは、そんな経験はある？ 」






　いま少しの沈黙、間としてはいささか不自然な。

「……まぼろしか。
　私に、幻はないのだよ、フィリー。
　私には、……」

　途切れがちの声、いまや彼が腕をのばせる窓はひどく小さい。

「”あるはずのないもの”というものは、”ない”。
　存在しない、私の前にその価値は反転する。
　私こそは、”ない”ことが”ある”ものだ。
　私の前に、実と虚は逆転する。
　あるいは、少なくとも、容易に逆転し得る。
　……そうした意味では」

　血の落ちるような音を吐く。
　ひび割れている、その亀裂はひとつ言葉を増すごとに、むしろ深まっているように思われた。

「私は、幻からこそ来たもの。
”ありはしない”もの。
そしてまた、決して、幻では”ありえない”もの……」

　いまや傷み欠けた刃の面のような声をして。
　そうして彼は、砕けるような響きで高く笑った。






　彼女は言った。

「幻が、見えるんです。
　あなたが娘と呼ぶ女性——フィガロの幻が。
　私があなたたちに敗北して以来、それが焼き付いて離れないのです。
　彼女はあまりに、美しすぎる。あまりに……」

「それに」

「……前に、私の見た光景の話をしましたね？
　王城の庭園、その時あなたは私が目にした、もっとも美しいものを尋ねました」

「血だまりに横たわる、金色の長い髪に、青い目をした一人の女性」

「その女性を、私はアナと呼んでいました。
　彼女も美しかった——エル・フィガロほどでは、ありませんが。
　彼女は私に価値を見出し、私は彼女に仕えることになりました。
　私は彼女にとても感謝していました——けれど。
　私は彼女に嫉妬し、殺してしまいました。
　美しかった……。損なうものは……その儚さは……」

「私の名前は、フィラデルフィア・シャントリエリ」

「"ない"ことが"ある"ように——。
　"ある"ことを"ない"ようにも出来るでしょう？
　なら、どうか。
　私の右眼を奪い、
　私を損なわせて、
　私の幻を、なくしてくれは、しませんか」






「……。
　あることを、ないことに。
　もちろん——。
　むしろそれこそは私というものの、本来の働きのひとつ。
　食い破り、呑みこみながら、拡がること……」

「しかし、“右眼”を？」

　彼は笑った、引きちぎられるような声で。

「もし、私が……それでは、足りないと、言ったら。
　きみは、どうする……？」

　それは雷の響く音にも似て。

「儚いことを、損なわれることをこそ、きみが美なるものとして捉えるなら。
　……フィリー。
　それでは、まるで足りるまいよ」







「……ええ。足りない、ですよね」

「私は、考えました。
　前に聞いたとおり、あるいは、私の人ならざる部分すべて剥ぎ取ってもらい、
　人の形にしてもらおうかとも、思っていました」

「仮に、それが自らを死に至らしめるようなことでも、それでも……」

「私は、そうしたいと思うは、思うんです。
　それでもいいと、思いはするんです。
　でも、でも、ダメなんです。
　私は、約束したんです。アトラさんたちを守るって。
　だから、儚いばかりではいられない。
　私は、私のすべてを損なうことはできない。
　でも、だから、どうか……。
　どうか、この、右眼を」







　ひどく巨きなものが、重たげに身をゆり動かす気配があった。

「……そうさな。
　けれど、きみが、そればかりしか私にゆるさないのなら。
　それは、……仕方がない。
　ゆるされなければ、何一つ、……私のものには、ならないのだから」

「いつか……いつかきみに、《そのとき》がやってきたのなら。
　もはやすべてを手放しても、構わないとさえ思うような虚無が。
　その暗闇が。
　出ることもかなわぬ常闇が。
　明かりをつけることさえできぬ、無明が」

「そのむなしさが……挫折が。
　逃げ延びることもできないような深淵が。
　いつかきみを、訪れたなら。
　……どうか約束しておくれ」

　そうして彼女は、右の眼に何か違和感を覚えるかも知れない。
　それは微細な奇妙さ、手で触れねば自身でさえも、そうとはわからぬほどの。
　あるいは叫ぶほどの痛みでもいい。
　あるいは熱。
　あるいは、ただ穏やかに濡れる涙の感触。

「そのときこそは私を呼んでくれると。
　そうして再び、損なわれることを欲望してくれると。
　ほかならぬ私の手と牙。
　そして刃と炎によって」

　彼は笑った。

「さあ、フィリー。
　明かりを点さなければ。
　きみの貌を。
　きみの姿を」




「どうか、私に見せておくれ」

相手の言葉にぱちぱちと眼を瞬き、それから慌てたように声を上げる。