”別に本当の名前があるの？”

　”——呼ばれているってことは、本名は違うのかしら？”

　”本当の名前は……。”





　《なもなきやみ》





　そのものの《ほんとう》を明らかにすること——。


　あるものの世界では《とこやみ》と。
　またの世界では《くらやみ》と。
　ときによりては《むみょう》とも呼ばれる。

　いつしか世界の狭間に横たわる、名もなき闇。


　それはただあてどなく拡がる常闇。

　この闇は一筋の光も知らない。



　世界間のあちこちに現れては消える、神出鬼没、正体不明の暗渠がある。
　これに特定の名はない。
　その世界ごとを意味づけるよう、固定された言葉やそれに類するものは、何一つ。
　ただ、それぞれの世界の言葉で《闇》を意味する単語で呼ばれるばかり。
　
　「かつて滅びた世界のなれの果て」とも、「世界間に生じた亀裂」であるともいわれるが、誰もその始まりを知らない。
　どこから生まれ、どのように拡がり、そしてこの先どうなるものなのか。
　誰も覚えず、誰も知らない。

　闇の底にはひとつの巨大な怪物が棲むといわれる。
　すべてを喰らう怪物が。
　迷いこんだものは、その大半がこれに喰われて命を落とす。
　運良く逃げ帰ってきたものも、数年のうちに精神を病み、死に至るようだ。
　けれど、そう……。

　　
　その底にあるものは、果たして、本当に暗闇なのだろうか？
　たった一筋の光もない、届きはしないその奥底に横たわるものは。
　その正体は真実、実体さえない闇の延長、《やみ》と呼びうるものなのだろうか。



　夜は太陽の輝きの元に姿を消す。

　人々は暗がりのなかに火を灯す。

　横たわる闇の深さだけ、強く照らしつける《光》があればいい。

　その正体を明かすことができたなら——恐らくは——。




　


　彼の真実の名を唱えれば、これを斃すことができる。

　

だからまあ、既に名前負けしてるんだけど。
そう言って彼女は笑う。

自嘲の嗤いではなく「一本取られた」と言う程度の笑い声。

何もなかったはずの男のその場所。

今はそこに、女と人形の姿を映し出していた。

上がったのは、声の詰まる音と驚嘆の声。

スカートの裾を摘み、恭しく一礼した後、人形は小さく首を傾げる。

気づけば、皿の中はあらかた空になっている。
彼の手の動きはゆっくりとしたものに見えていたので、思わず自分の目を疑って、ぱちぱちと瞬いた。

見目若い彼の容姿から、幼子を想像してそう問うた。