川の水は清らかだった。手を椀に代えて汲むとひやりと冷たい感触が清冽な流れをどこか懐かしく思わせた。レルヴォヴェールに首都ヴォルを流れる長い川の水は灌漑と運河に調律され、避けがたい不潔さと死人じみた遅い流れを伴っていた。メルンテーゼの険しい山林を越えて流れる川の速く清潔さを保つ流れとは違って、けれど秋の帳の降り始める頃にはたしかにいつもひどく冷たさを保つのだった。水は土よりも早く冷える。

流れのところどころには星屑の名にふさわしいきらめきがあった。それが例えば鉱物によるものであるのか、なんらかの霊的な性質のものであるのか、それとも生物のなにかの残骸や命の残り香であるのかは知れなかったが……ナイトスピリットと呼ばれる暗闇も見た限りのところにはなかった。緑いろのホタルたちがただ時折はちろちろとやわらかく燃えながら飛沫の傍らを舞うのだった。思い返すなら多くの世界の異なるさまざまの伝承にホタルは死者たちの魂ともみなされていた……それもまた目当てのエンブリオではないにせよ、ひとつのナイトスピリットであるには違いなかった。

たわむれに握ろうとした左手をホタルたちはみなすり抜けていった。それがルヴナンの薬理に私の視界の揺れるためであるのか、それともそれらの光がそもそもに幻覚であるためなのかは知れなかった。魂たちは私の手の中になかった。夜を越えて横たわることなく遊離する居処も宛処もない魂たちが誰の手にふさわしかったのかもまた闇自らの一隅よりもなお闇に閉ざされていたにせよ。……

水切りの石を投げると、七度、正しく跳ねて、岩に弾かれて落ちた。広い川といえ果てしなく石の跳ねるとはゆかない。水没した石は長い旅をすでに終えた川辺の石の持つあの丸さのために、ことさらに流されることなく、ただ水の膜一枚を通してもはや隔てられてしまった空を望んでいた。そうした野ざらしを組み替えた自らの作為にはいささかの罪悪を感じないでもなかった。

川は美しかった。もとより生活の大半の動力を町に流れる大河の統御を通して得ていたレルヴォヴェール人にとって、それは海より身近な隣人だった。川は必ずひとつの方位を守って流れていった、文字のように……それゆえにこそ製紙工場たちは巨大な水車を運河に差し入れ、文字のために用立てられる紙たちをその運河の力に依拠して製していたのかも知れなかった。

美、という言葉とともに思い返すものはたしかにフィガロであり、そして避けがたくヤールでもあった。ヤールがいつの間にか手に入れていた片方の瞳は玩具じみていたが目には違いなかった。メルンテーゼの美しい川べりは見せてやりたい光景ではあった……しかしその美点はいつのときも私の水と川への贔屓をいくらかは割り引かねばならないはずだった。

美は主観によって生み出されるが、客観によって共有される。その架け橋がどこにあるのかは哲学者の思考の領分だろう。誰かにとって美しい美は、必ずどこかで誰にとっても美しい美であり得る。そうでなければその物象は美の名にふさわしくない。しかしすべての主観と客観がそうであるように。いくらかの食い違いは呪わしく起こる。私はそうした呪いからはヤールを遠ざけたかった。相手は結局のところ、視覚的な美のなにを知るとも知れぬ盲人であるのだから。

奇妙な一日だった。本来は城の中へ進むはずだった一日を、川で結局のところは半ば遊んで過ごすことになったのだ。少なくはない数が棲息するはずのエンブリオたちは私たちの前に姿を表さなかった。それゆえ川はむしろ滑稽な平和を呈していた……それはもう訪れないはずの平和に似ていた。クロマ・セロシアの帰り道に聞いたあの海の音のような。けれどそれも錯覚だった、心の手触りがいささかは似ていたというばかりの……けれど水はどこかに懐かしさを含んでいるのだった。回帰する、あるいはそのたびごとに訪れる、甘やかな郷愁と抱きとめる美……

　

「賞金首だろ」。ぴたりと足を止め、物言わず女を見やる。
身じろぎもせず女を一瞥したのち、ふとその左手に目を留めるが、つと風に揺れる薄汚れた紙に視線を移す。
共通語は口語でこそ理解できるものの読み書きには不安が残っていたが、それでもその文字の意味は理解できた。
「WANTED」。《望まれてある》。

身を引くでも歩を進めるでもなく、少年はじっと手配書を見つめている。
が、女が名乗りをあげれば、ふっとその視線を手配書から外し。

訝しげに女の顔と左手を交互に見やる少年の、その背後。にわかに、仄かな光の環が浮かび上がった。