技師はシガレットケースを逆さまにする。
　煤に汚れた軍手の上に落ちたのは、たった一本のシガレット。

「ばかにちょうどいいじゃねえか」

　口笛を吹き、紙巻き煙草を口にくわえる。
　所作は日頃の彼そのもので、火を付ける素振りには焦りも恐怖も滲まない。
　もはや数刻も時間が残されていない人間のそれに見えぬのは、彼の自制心故になせるものであろうか。

「ごめんなさいね」

「謝らんでくれや。どうせ終わってた人生だからな」

　これが最後の一服だ。
　肺一杯に満たすかのように、深く、深く、煙を吸い込む。

「若えヤツよかいいさ。泣き喚いて命乞いするにゃ、オラぁ長く生きすぎちまった」

　さりげなく紫煙に燻らせる言葉。
　諦観。遺された者への気遣いはあまりにも痛々しい。

「なにか、わたくしにやれる事はあるかしら」

「そうだな。アイツが覚えてたらよ。あのばかに……ネイサンに宜しく伝えてやってくれや」

　思いがけぬ名前にどきりとする。
　ネイサンは人狼ではない。彼の下で技術を学び、トニーの補助に勤しんでいる人間の青年だった。
　そばかすを散らした童顔は、何時だってニコニコと笑っている。
　そうして、トニーの背中を追っかけていた。殆ど相手にされなくてもだ。

　トニーがネイサンの名を呼ぶ姿をはじめて見たような気がする。
　照れるような余韻を残したままではあったけれども。

「オラぁよ、ガキの頃からヴォルフスムーンの発展を見てきたんだ。
　空飛ぶ船も、教会の巨大な蒸気オルガンも、町中を走る蒸気自動車も、人々を繋ぐ電信機も、なにもかも。
　好きだった。コイツらを動かせるオレは選ばれた“にんげん”だって思ってた。
　本当によ、馬鹿だよな」

　懐かしむように瞳を細める。
　日頃、酷く気怠げに下がる口角は、何処か自嘲気味につり上がっていた。
　何処か遠くを見つめるような瞳は、心底なにかに惚れ込んだ男の愛情を宿している。

「アイツらに魂を吹き込む仕事は譲ってやるってな」

　腰を上げ、夜の森を彷徨う子供のように、数歩だけ歩みを進める。
　鼻をつく——紫煙とは異なる焦げ臭いにおい。

「トニー？」

　背中越しに手を振ってみせる、その指先。
　僅かに揺れる原初の炎は、彼の手を伝い、腕を這い、疲れきった背中を飲み込んでいく。
　もはや彼の姿すら見えなくなった、その瞬間に——。


「死にたくねえなあ」


　細い声が耳を切り裂く。
　まばたきを一つ。もはや炎もサラマンダーもなく、彼の全ては持ち去られた。
　地面に目を走らせても、エンブリオに譲り渡した“シガレットケース”は見当たらない。

　エンブリオは力を認めたものに対して契約を受け入れる。
　差し出した力。彼らの遺品であり、彼らが遺したもの——“人狼の生きたものがたり”でもある。　
　ヴォルフスムーンのあらゆる記録よりトニー・ストーカーの物語は焚書に処される。
　もはや彼を知るものは彼岸に生きるものだけだろう。

　契約通り、正当な対価は支払われたのだ。

　ドクター・ウェイ。
　
　人狼でありながら変身人間（シェイプシフター）の研究者。
　ヴォルフスムーンの女人狼と、異世界の使用人との間に生を受けたあいのこ。
　使用人階級でありながらジェントリに上り詰めた奇才。

　彼を天才と呼ぶ者もいれば、一方でいかれてると称する者もいる。
　そうして、それは共に正しいと認めざるを得ない。

　彼にとって、世界は研究対象の宝庫でしかないのだから。

　
　彼の身に流れる異界人の血は一種の特異を呼び覚ます。
　数多の人狼が“考えることすらおぞましい”と思いこんだ事を、彼は夢見て追い続ける。

　彼の細い瞳は生命力を視認する。
　生命力の流れを操作する武術——異界人の父に仕込まれた——を昇華させたもの。
　どんなに取り繕おうとも、その身に流れる血は変えようがない。

呑気に爽やかな色のペットボトル飲料なんかを勧めている。

老貴婦人の頭の中に於いて、
ディグリース・インダストリーの技術力はとんでもない進化を遂げはじめているようだ。

再度にっこりと微笑んで、紳士のようにお辞儀をする。

恐る恐るたくあんを差し出している。

何やら敵？ と思しき集団の中に一人の女性を見掛けて尻尾が跳ねる。

なにやらノリノリだ！

ふっと、社長夫人の尻尾をみやる。
二股の尻尾に、何か記憶に引っかかるモノがあったが——にっこり微笑み考えるのを止めた！

長刃を振り、血を拭った。

少し残念そうだ。だが契約はするらしい。