伸ばしかけた手は、チセの手を取ってくれることは無かった。

薄く開かれた瞳で、アールの顔を眺める。

前髪の間から額に刻まれた呪いの紋が見えた。

宙に浮いたままの手を、ゆっくりと握った。







「…… 怖いと思う事は、この先あるかもしれないですけど。

　怒ったりなんて、しませんよ。

　

　何に怒ればいいんですか？もっと早く言えって…？」







困ったようにチセは小さく笑った。







「私と一緒にいたかったから、言えなかったんでしょう…？

　そんなの、怒れるわけないじゃないですか。」







ゆっくりと、身体を起こそうと腕に力を入れた。

背中に鋭い痛みが走り、小さく呻く。

小さく息をつき、アールに起こしてもらえないかと頼んだ。

寝ているように言われたかもしれないが、それが駄目なようであれば痛みを堪え、壁にもたれながらも何とか姿勢を支えた。

結われていない長い髪が、おぼつかない身体の動きにつられふわふわと揺れた。







「ひとりって、寂しいですよね。

　…寂しいし、　　…哀しいし、　　　　…不安になるし。]







ゆっくりと、何かを思い返すように言葉を落とす。

浮かべる表情は、どこかぎこちない、曖昧な笑み。

数度の瞬き。

ゆっくりと2度頷くと、ゆっくりとアールの頭に手を伸ばした。

色の薄い髪に触れる。

想像していたよりも柔らかだったそれに指を通し、くしゃりと撫でた。







「私、物心ついた時には、お母さんはもういなくて。

　それから、お父さんが死んで、おじいちゃんが死んで…。

　

　リュートや、そのお姉さんは私の事を家族みたいに大切にしてくれたけれど。

　でも、やっぱり、違うかなって、思う事があるの。

　お姉さまとリュートには心苦しいけれど、でも…　」







姉妹がリンテントポーゼから旅立ったあの日。

置いていかれたと、確かにそう感じてしまった。







「……　うまく、言えないわ。」







小さく鼻をすすって、首をふった。

その声は微かに震えている。







「ずっと、寂しいって思いながら旅をしてきたんです。

　アールさんが、　こんなに　　近くに、



　近くに、いるのに…、」







アールの頭を撫でていた手は、そのまま彼の顔をなぞるようにして落ち、頬に添えられた。

ゆっくりと顔を向かせる。

灰がかった紫の瞳は、薄く赤を帯びる。



























「謝るのは、私の方だわ。

　ごめんなさいアールさん。」



　



呪いの紋が刻まれたその額を撫でると、後頭部に小さな手をかけた。

腕を震わせながら十分ではない力顔を引き寄せると、そっと顔を寄せる。

重なるふたつの額。

呪いの紋が刻まれていても、彼の額は温かかった。







「大丈夫。

　…———先のことは、わからないけれど。

　

　でも、今は私が一緒にいるから。

　チセって、私の先祖が使っていた言葉で家っていう意味なんですって。」







脳裏に浮かぶ金と赤の色に、そっと瞳を閉じた。







「だから、もう泣かないで。

　私にだって、泣きたい時くらいあるんですよ…？



　でも、ふたりして泣いてたら、何だか情けないじゃないですか。」　







そう零した唇が、歪にゆがんだ。

チセと名乗った少女の言葉を聞き男の頭の中を幾らかの思考が巡った。
それは”あのクソ姉妹共が、こんな小娘まで連れだしてたんかい”だのと言ったモノであったが、男が漏らしたのは一度の舌打ちだけだった。

男は名前を告げたあと簡潔にそれだけを口にした。
それは不機嫌にも、億劫にも見えるだろう。
それでもまだ見知らぬ小娘に応対するだけの余白が残っていた。

チセの様子を見て、過去の経験から、彼女の隠し事は見抜いていただろう。
しかし、直接そのことについて言及はしない。
それは、デリフィーンのいつもの咎め方だった…
否、咎めたところで一度、何かの決意を持ってチセが選んだことを
自分の言葉一つで簡単に覆すとは思っていなかったのかもしれない。

驚きこそすれ、リュートのことについて否定も拒絶もしなかったチセに安堵した様子を見せた。
チセの優しさのこもった手の暖かさに目を伏せる。
目の下に落ちた瞼の影は、顔に僅かな疲労感を添えていたかもしれない。

ゆっくりと握られていた手を放すと、自分の左耳へと移す。
小さな動作の後、チセの目線へ手を動かす。
そこには、シンプルなルビーのピアスがあった。

それを受け取る意志の有無に関わらず、
何としても持たせようという気迫めいたものが窺えた。

それから道中、気を付けるよう念には念を押して、次の試合へと向かっていった…

護りの森と呼ばれている深いその中、聞きなれたであろう声がかかる。

気合を入れるように、自分のと両頬を叩く

「ここになにかがあるよ」と示すように
ウィスプは宙を舞っている

少女はソワソワしている。

（静かな小川に、「見てはいけないものを見てしまった」と言わんばかりの悲鳴が響く）