もう十数年も前のこと。

未だ健在であった父に連れられ、フリントを訪問した。
外交を積極的に行っていないかの地を訪れたのはその時が初めてで、
以来、一度も再訪していない。
その数年前に婚約者を遺失していた私に、お優しい父は気を遣ったのだろう。
「好きな装いで来なさい」とだけ注文を付け、他には何も言わなかった。

メルヴィン殿と父は、当時の私の記憶を辿っても良い関係性を築いていたのだろう。
互いに酒が好きなことも手伝っていたのかもしれない。
挨拶を終えた後は領主同士のみの席となり、私は屋敷の中を散策しても良いとなった。

屋敷の窓から見えるのは、深緑に染まる木々や彩鮮やかな花々。
夏のリンテントポーゼの様で、ここではほぼ常にこうなのだろう。
隠れ里の様な、穏やかな陽の光と、どこか他を寄せ付けようとしない空気。
容易に手に入りそうでいて、長きに渡り独立していた。
リンテントポーゼがこの小さく豊かな地を蹂躙しなかった理由は、そこにあるのだろうか。

廊下に備え付けられていた窓から視線を外すと、下の方で小さな赤い色が揺れた。
一つの部屋の、僅かにあいた扉から幼い子がこちらを窺っているのが見えた。
不安そうに、不思議そうに、翠色の小さな瞳を、しっかりとこちらに向けて——

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「メルヴィン殿のご子息と、仲良くしていたそうだね？メルヴィン殿からわざわざ礼をいただいたよ」
「…えぇ、まぁ、ティッキーやアージェと同じくらいの年の頃でしたから、慣れていただけでしょう」

帰路に、父から手渡された一枚の白い絹レースのハンカチーフ。
感謝と友好の証として、ブレイズバース家付きのエンブリオを譲り受けてきたという。

「やはりあの子供は次代のフリント領主なのですね」
「名前はヘクターと言うそうだ。メルヴィン殿に似ないと、良いのだろうけれど…」

父は少し困った様に笑っていた。

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「…起きたまえ」
「…う…うぅ…」

ティッキーの息もつかせぬ攻撃に、あっさりと倒れたシルキーをバルディッシュの柄で小突く。
対峙していた時から変質したそれは、過去に見知っていた姿をしていた。
しかし、幸せそうな寝顔を崩すことは無く、起きる気配も見せない。

「寝坊は相変わらずか？オルレア」
「……は、はははい！お、奥様！オルレアは起きておりまする！」

白い絹糸の髪を派手に揺らしながら、上体をほぼ垂直に飛び起こす。
慌てふためいてはいるが、懐かしい光景でもある。

「……？……デリフィーンお嬢様？なぜ…」
「それはこちらの台詞だ、何故ここにいる？」
「…あのぉ、デリフィーンお嬢様。そのぉ……ここはどちらでございましょう」
「…どちらかというと、リンテントポーゼよりは王城の近くだ。暇を願い出てフリントに戻ったのだと思っていたが？」
「……う…」

言葉に詰まったオルレアを問い詰める。
聞き出せたことは、リンテントポーゼを去った後、
フリントへ戻るには気が引けたために眠りについたが
その後の記憶はなく、目覚めた瞬間がついさっきだったということだけだった。

「ここでお嬢様とお会いできてオルレアは感動しました。
お嬢様も、もうだいぶ……大きくなられて…ボラージェ坊ちゃまもリューティクお嬢様も
さぞご立派になられているのでしょうね…フィリローシャ様は——」
「オルレア、今は時間がない。君もここにいてもどうしようもないだろう、私と契約しなさい」
「え？えええ、よ、よろしいのでございますか？オルレアの様な者がお嬢様と——」
（おい、いつまで思い出話に花を咲かせているつもりだ）

しびれを切らしたミザールが虚空からその黒い姿を現し、割って入る。
突如現れた獣に、オルレアは先ほどより一層、上に飛び跳ねる。

「ひっ……お嬢様、この猫は…」
（猫ではない！）
「君たち、喜劇を繰り広げるなら余所でやってくれないか」
（無礼な、我をこんな能天気な奴と一緒にするな！）

オルレアは宙に舞ったまま、唸り声をあげているミザールを泣きそうな顔で見ては、私に助けを求めている。
そういえば、屋敷でも良く猫に追いかけまわされては髪をしゃぶられていた。

「オルレア、早くしなさい。ミザール、先に道を見てきてくれ」
（…ふんっ）

最初に頂戴した時の絹のハンケチーフは失われてしまっていた。
かつての姿を取り戻し、記憶もあるとあっては、このまま放っておく訳にもいかず、
ミザールと同じ様に刻印によらず契約することとした。
一つ、ため息をこぼす。
この先、なかなか厄介なことになりそうだ——

(ぴょこぴょこ頭を上下させてお辞儀をしているようだ)

音をたてんばかりに泣き、感動している。

傍らには、口数の多すぎるエンブリオに、やや疲れ切った顔を見せているデリフィーンがいた。

うずらの前に出てキリ、と弓を引き絞る！

しゃがんでうずらの様子を見ている。

ヘクターは深々と頭を下げた。

バルディッシュから槌に持ち代える。