手帳の事をすっかり忘れてた。命令文も消されてたか。間が空いたから、後で報告の時に怒られるかもしれない。
　記憶を綴じる。自動書記に任せる。
　

　
　森へと向かう間に休憩と称して腰を下ろした木に囲まれた小さな岩場で、頭を抱えていた。
「……だから俺名付け苦手なんだってば」
『頑張って下さい、主』
　小さく漏らせばシャールの苦笑。背の方にはウィフトが寝そべっていて、風がなく陽が注いでいるここは暖かいほうだ。それでもじっとしていれば緩やかに侵蝕されそうだと、外套の襟を寄せながら、目の前に並ぶ四つを見やった。
　一つは剣を携えた、眼を布で覆い隠した少年。もう一つはその少年の背に隠れるようにした、ぼろぼろの布を纏った子供。顔を上げないから、人間の性別のような判断の仕方が通用しないが、こちらも人間に近い姿をしているのは変わらない。
　最後の二つには、溜め息。浮遊を解いて草の上に座ったフェターレの腕から身体に絡み付いた、光に当たれば紫がかった青を返す藍色の身体。するすると滑る音を立てて鎌首を擡げたそれは、ちろちろと紅い舌を振るわせてみせた。
　瞬時に背に怖気が走る。白い指を伸ばしたフェターレがその蛇の顎の辺りを突ついて小さく笑う。
『慣れま　しょう？』
　力強い子ですからと、氷の彼女は言う。だからと受け入れられるものでもない。分かっているのだろう彼女が、それをけしかけて来ないのだけが良心だった。
　多頭の蛇、ヒュドラだというそれは、今はただ普通の蛇の姿として大人しくしている。テラや、最近はずっとコートの中から出て来なかったレーレが久々に顔を出して、それで何かしらの意思疎通を行ったようだったが、やはりシャールやフェターレのように声を発する事は無い。総括してシャールが伝えてくれた言葉を見る限り、その蛇には、こちらを噛んだりという意志はないらしい、が。
　——だからといって安堵も浮かんで来ないのは、それがトラウマに近いからだ。たった一度だけ、しかももういつの事なのか、その年数すら分からないから、知る人には多少茶化されたりもするのだが。
　蛇の毒だけは駄目なのだ、どうしても。どうしてもその姿を見るだけで思い出してしまう。自分が死にかけたというのもあるが。
「フィール……今あいつなんて名告ってんだ、あいつだって蛇は苦手だろ？」
『あのひと、なら、今は　、レティシア。レティ　は、苦手というか、ただ、　好きじゃないだけ、　です　よ？』
　ことり、首が傾く。銀の癖の強い髪が揺れて、被り物から垂れた赤と金が揺らめく。——攻撃的な色だ、こうして会話は出来ているが、直接『彼女』がここに来ているわけではない。恐らくは手記で作った写し身だ、それについて何か文句を言うでも不満を覚えるでも無いのは、それがとうに自然の事になっているせいだが。それでもこの世界が既にこの状態だ、戦闘の場に立つようになれば、どの色が一番に現れるか。そう思うのは、抑えられない。
　戦いから遠く距離を置かせたくても、彼女の立場も力もそれを許さない。それは、自分も同じではあるが、ならば尚の事片方だけで良いではないか。
　息をつく。思考を断ち切って、蛇からは緩やかに視線を外した。声だけは、その二つに向ける。
「どっちにしろ好きなのはお前だけだろ」
『あら。　好きになった、のは、　貴方のおかげ　ですから』
　反応が良いから。そう付け足されても嬉しくない。どろこか緩やかな虚無さえ覚える。それも全部飲み込んで、視線を戻した。横からシャールの声。
『噛まない、けれど暖かい方が良いから、出来れば巻き付きたい、だそうですよ、主』
　何度目だろうかと思いながら背を丸めて肩を寄せた。鳥肌を外套の上から撫で付ける。シャールを見れば、その動かない表情の中に僅かに苦笑が浮かんだような気がした。
『暖かさをもつものは、わたくし達の中ではウィフトだけですが、彼は氷ですから。わたくし達には冷たいのです』
「……フェターレ」
『わたし、は、熱という概念　に、遠い、ですから。冷たさも、　あまり』
　そういった基準を持たないのだと言われてしまって、また頭を抱えた。まさかエンブリオが普通の蛇と同じように冬眠するわけでもないだろうが、それでも寒いと言われて放置しておくのも気が咎めるし、かといって触れるかという時点で全力で拒否したいところを腕や首に巻き付かれたらと考えるだけで。
「……悪い、反射で投げ捨てない自信が無い」
　言えば蛇は震わせていた舌を顎の中に収めて項垂れてしまう。フェターレがそれを撫でて、そうしてこちらに顔を向けた。
『少し　ずつ、慣れてみま　しょう？』
「……がんばる、けど」
　自信は無いと、言外に込めるように声は不安定になる。ほんのりと赤い唇が笑んで、じゃあと他の二つを見やる。共に、地下で拾ったのだという、いつの間にか——おそらくは『彼女』が契約を行った二つ。
「……『クリエト』、『ティラシェ』」
　名を呼べば、少年はゆっくりと頷く。そうしてから振り返った先のもう一つは、視線が向いたのを感じ取ってかびくりとその肩を揺らして、ぎゅ、と膝を抱えて身体を縮こまらせる。眼を瞬いて、座っていた所から膝を立てて手を伸ばした。
　小さい頭に触れるとまたその全身が震える。構わず、僅かに重さをかけるように、ゆっくりと撫でてやる。少しの間があって、やはり顔を上げないまま、小さいそれも戸惑いながらも頷いたようだった。
　レーレが外套の中から顔を出し、クリエトのすぐ傍まで浮遊して眼を合わせて頭を傾げてみせる。それにほんの少し微笑んだようなクリエとがティラシェを片腕で抱き寄せるようにして、そのままそれらの姿が、ざ、と音を立てて消えていくのを見送ってから、もう一度、眼を向ける。
　濃い藍色の中の黒い瞳が瞬く。ああ瞼があるのかと思う。腰を下ろしたフェターレの腕からするりと草の上に滑り降りて、距離を置いたまま首を持ち上げる。何かを催促するかのような眼に思わず言葉に詰まる。
　しばし見つめ合う。見るのはまだ良い、動きが少なければ。そうであればまだ良い、まだ逃げ出さずにすむ。ただこの先にどうしようかと、逡巡するものが延々と巡り続けて。
　手を持ち上げる。ゆっくりと近づける。手袋に覆われたままの人差し指を伸ばして、本当にゆっくり、少しずつ近づけていく。まだ名の与えられていないそれは、その動きに人間がやるように軽く首を傾けて。
　すっ、と。本当に自然な動きで動いたその蛇の口先が、布地を越えて触れる感覚。
　
　ぞわりと、その指先から全身を這い回る感覚に、殆ど反射的に笑い出しそうになるのを、押さえ付ける。