足場の悪い荒涼な地面に、魔物の倒れる音がする。
並みいる敵を倒したコトブキ達は、魔物が動かない事を確認して一息ついた。

「随分と呼吸が乱れていますが、我が君は本当に大丈夫なんですか？」

いつになく肩で息をするコトブキを見て、ミハイルは不安そうに尋ねた。
最近は原因不明の体調不良で、コトブキが倒れてしまう事がままあったからだ。

「……問題はない、心配をかけてすまないな。」

コトブキの声は落ち着いているが、語気は弱いものだった。
こんなに顔色を悪くしておいて、順調であるはずがないとミハイルは思った。

ドラゴンマウンテンでは、時折飛竜のような大きな影が空を横切る。
襲ってくるわけではないので、遮られた日光が再び射すまではその場に留まるようにしていた。
今回は大きい個体だったらしく、少し時間を置いてから一歩を踏み出す。

ミハイルが数歩進んだ隣で、コトブキの体が地面に崩れ落ちた。

少年は何事かと躊躇したが、倒れている女性を確認すると気をしっかり持つように自らの頭を振った。
ここは寒冷な場所だ、体調の悪い人を放置しておいたら悪化しかしない。

「我が召喚者の名において命ずる、『意思ある人形』クスノキヒサコを現場所に召喚する。」

手袋を取った左手の甲を掲げ、ネクターを捧げて宣言する。
もう少しまともな人選はないかと思ったが、そもそも話が通じるのが『意思ある人形』しか居なかった。
『意思ある人形』はセーラー服で機関銃を抱えたまま、仮面に覆われていない片面で穏やかに微笑んでいた。

「そろそろこの人形も潮時ですか、想定以上に戦線が拡大していますから無理もない話ですが。」

淡々と紡がれる言葉はミハイルの勘にさわったが、ここで争っても仕方がないので何も言わなかった。
『意思ある人形』に片方を支えてもらい、コトブキを拠点のテントまで運ぶ。

「それにしてもエンブリオの暴走という、今の潮流は好ましくありませんね。
　人々の憎悪の矛先が、何の罪もないエンブリオに向き兼ねません。
　お互い手を取り合って生きていくには、あの邪魔者を排除しなければ。」

少しずつ進みながら、『意思ある人形』はぽつぽつと呟いていく。
彼女達『無貌の蒼頭』にとってお互いの手を取り合うということは、
すなわち人間の莫大な生命力を目的としていると、ミハイルは今までの経験で知っていた。

「……本当にお互いの手を取り合うことができるんでしょうかね。」
「できますとも。貴方だって、『無貌の蒼頭』を利用しようと思っているでしょう？」

『意思ある人形』の鋭い一言に、ミハイルは一瞬動きを止めた。

「ここにも同胞が居ることくらい、私にだって分かっていますよ。
　ただ前にも言った通り、二重契約は無理ですからね。」

片面の少女の声のトーンが下がる。

「この戦いによって、世界は夥しく変化するでしょう。
　私達も生きる本能がありますから、聡いものは宿主を探していたりするのですよ。
　でも忘れないでください。人間の身で2つの『無貌の蒼頭』と契約すれば、恐らく契約の負荷に耐えられません。」

『無貌の蒼頭』と契約すれば、莫大な生命力を差し出すことになる。
すでに『意思ある人形』との契約では50余年のミハイルの寿命が対価となっており、
他の干渉者を倒すことでだいぶ相殺されたが、それでも負担は残っていた。

重い空気の中拠点に戻り、テントの中にコトブキを静かに寝かせる。
『意思ある人形』は帰る間際、一言だけ残していった。

「私とて貴方を失うわけにはいきません、賢明な判断を望みます。」

倒れているコトブキの表情を見ながら、ミハイルは大きな焦燥感を覚える。
何も出来ない自分が、こんなに惨めなものだとは知らなかった。

バケツを被った猫が戻って来たのを確認して、ミハイルは先ほどまで居た戦場へ向かう。
ずいぶんと開けた場所であり、大きな儀式をするには適しているからだ。
その場所についてから、ミハイルはひと握りのネクターを掲げた。

「我が召喚者の名において命ずる、全てを吞みこむもの　フェンリルを召喚する。」

フェンリルとは、戦闘が終わった時に予め契約だけは終わらせていた。
言葉に呼応して、凍気の風を巻く巨大な獣が目の前に現れていた。

◇◇

最初に戦った時も感じたが、ミハイルの身長をゆうに超す巨大な獣だった。
フェンリルは音ひとつ立てることなく、こちらを見下ろしている。

「フェンリル……いいえ、あなたは『無貌の蒼頭』ですよね？」

ミハイルは、油断すればすぐ怯えそうになる自分を精一杯押さえて問う。
『無貌の蒼頭』は誰かの口を借りないと話すことはできないが、こちらの話は理解できる。
これも『干渉者契約』で知ったことだ。

「隠れていても、僕は別の『無貌の蒼頭』と契約しているから存在には気づきます。
　でもね、今度は僕自身が戦うための力が欲しいんですよ。」

『干渉者契約』で得られるのは、異世界から来た英雄を戦わせるための力だ。
自分が巨大な敵と戦うためには、別の力を手に入れなければならない。

「無茶を言っているのは、自分でも理解しています。
　人間の身には過ぎた望みであることも。それでも、もう誰かが代わりに傷つくのは沢山だ。」

ミハイルの声が掠れて震える。それは、凍気だけのせいではないだろう。

「『無貌の蒼頭』よ、僕にこの世を戦い抜くだけの力をください。」

我ながら無茶苦茶だと、ミハイルは思った。
『無貌の蒼頭』を呼んだところで、どうやって対価を支払うというのか。
半分諦めていた時に、フェンリルを取り巻く氷の風が変化する。

氷の風は旋風となって、ミハイルの身体を押しのけた。
体勢を崩し周りを確認してみると、先ほどまでフェンリルの居た場所には1人の男が立っていた。
目の部分を仮面で覆い、勲章をたくさん付けた軍服を着た金髪の男である。

「我が名は『礼讃なき英雄』とでも言っておこうか、少年よ。」

体格と声の調子から、中年から壮年にかけての軍人の将と思われる。
『無貌の蒼頭』は相手によって自在に姿を変えるので、これも仮の姿なのだろう。

「それにしてもすでに同胞と契約しておきながら、なお力を欲するとは。正気かね？」

軽く呆れたような口調で、『礼讃なき英雄』は続ける。

「まぁその望み、叶えられないことはない。
　同胞が契約しているのは君の生命そのものだが、幸い人間は生命だけの生き物ではないからな。
　君の知性と契約するなら、二重契約には該当せんよ。」

生命と知性、これが異なるものであるのは理解できる。
ただ『礼讃なき英雄』の言う内容は、ひどく危険だとミハイルは直観した。

「我が君は言ってました、耳当たりのいい言葉はまず疑えって。」

雰囲気に圧倒されながらも、ようやくその一言を絞り出す。

「私は君の質問に答えているだけなのだがね。
　具体的に言うと、契約の対価は君の将来性ということになる。
　もちろん私の力を維持するためには、生命力が別に必要だ。」

ミハイルがこの先生きることを考えると、差し出す生命力はほぼ皆無だと言っていい。
絶望で眩暈がしそうだったが、なんとか意識を保つ。

「その生命力は、この先お前が成すであろう成果により流れた血で、回収することにしよう。」

『礼讃なき英雄』の口角が上がる。

「私が必要とする生命力に満たなかった場合は、君のまわりの縁者より回収してゆく。
　逃げられるとは思わない方がいい、私は我が同胞ほど行儀は良くないからね。」

目の前の男は静かに、淡々と話をしていく。
どう考えても、『干渉者契約』より厳しい内容だとミハイルは判断した。

「……話を聞く限りでは、随分横暴な契約内容ですね。」
「契約というものは、必要だと思えば成立するものなのだよ。」

一呼吸置いて、『礼讃なき英雄』は続ける。

「今までよく無力に耐えてきた、女ばかりに戦わせるのはつらかったろう？」

『礼讃なき英雄』の言葉が、ミハイルの心に圧し掛かる。
人を食ったようなこの男の話し方は気に入らないが、最初からミハイルに選択肢などなかった。
しばらく考えた後で、ミハイルは険しい顔で『礼讃なき英雄』をゆっくりと見上げた。

◇◇

「『礼讃なき英雄』よ、あなたに問おう。
　契約によって与えられる力は、僕が自分の道を切り開くのに足るものですか？」

少年の静かな声は、揺るぎなく澄んだものだった。
『礼讃なき英雄』は決意に満ちた少年の表情を見て、満足げに口元を緩める。

「約束しよう。我が力は必ず、君が望むように生きていく武器となる。」

その答えを聞いて、ミハイルは頷いた。
膝立ちになりながら、腰に下げている皮袋からネクターを取り出す。

「最初に言っておく。
　例え君が世界の混乱から郷里を救い英雄と称されたとしても、
　救国のために背負った傷の痛みを誰も理解せず、慮ることはない。
　失態を犯せば当たり前のように罵倒され、地獄に落とそうとするだろう。」

『礼讃なき英雄』の低い声は、静寂の中にただ重く響いている。

「それでも君は世界を愛し、郷里の繁栄を願うことができるかね？」

ミハイルはネクターを右手に握ったまま、顔を上げた。

「人間ってね、案外自分が見たり知ってしまった事を無視できないものですよ。
　一度知ってしまったら、無知だった頃の自分には戻れない。」

ミハイルは、これまでコトブキに教わった事を思い出す。
詐欺師に踊らされてこの戦いに参加したけれど、彼女の言葉や行動から学んだことは、あまりにも多い。

「だからきちんと自分の成したことを示していけば、理解してくれる人は必ず出てきます。
　どう生きても全ての民に愛される訳でもないし、全ての民に否定される訳でもない。
　それならば、自分の良心に従ってもいいじゃないですか。」

誰かが傷ついて後悔するくらいなら、自分の血を流す方が精神的に健全である。
これは今まで戦ってきて、ミハイルがずっと痛感していた事だった。

「そういう生き方をした方が、きっと楽しいです。」

ここまで言って、ミハイルは誇らしげに笑った。
右手にある溢れるばかりのネクターを天に掲げ、契約の言を唱える。



ネクター全体が輝きを放ち、その場全体を包んでゆく。





その言葉の直後、光に包まれた『礼讃なき英雄』の姿が空間に溶けてゆく。
ネクターが輝いている間はミハイルからはよく見えなかったが、視界が元に戻り始めた頃だろうか。
幅広い一振りの剣が、『礼讃なき英雄』の居た場所に佇んでいた。

「私の名は『礼讃なき英雄』ミハイル・ドラゴミーノフ、以後宜しく。」

脳内に直接響くその声に、ミハイルは驚きを隠せない。
何かに誘われるように、少年はその剣の柄を握る。


「どんなに血を流しても、決してその傷に見合う賞賛はないだろう。
　だが我が剣で切り開いた未来には希望がある、必ずだ。」


ミハイルは、自分の中に力が流れてくることを実感する。
銀色の鍔に埋め込まれた蒼い輝きは、静かに光を帯びていた。


To Be Continued......

少年は、抱えていた大きな棒状の包を解く。
中から現れたのは、銀色の鍔が眩しい大剣だった。
鞘から刀身を抜出し、前方へ構える。

少年が親指で軽く刀身の端を撫でる。裂けて血が滲む指を抜き身の刃に当てた。

少年の手にする剣には確かに、無機物とは違う青白い脈動が感じられていた——。