澄んだ空気と絶えず流れる水の音は、いくらか荒んだユーグの心に一定の安らぎを齎してくれていた。
水辺を探索する機会に恵まれたユーグたちだが、何度見てもその水が——あるいは他の要因も手伝って発光し煌めく様子はいつみても飽きないものだった。幻想的なその様子を星屑と例えた先達の冒険者たちは随分と詩的な感覚を持ち合わせていたらしい。
ユーグはこの光景を素直に美しいと思っていた。それはあの一定の規則をもって整えられた庭園とは違い、自然という不規則さの元形成された美だった。街で生まれ育ったユーグはそのような美に触れる機会が少なかった。何のことは無い、物珍しいのだ。真新しいものはいつだって興味を引き、飽きることはない。
ツグミの横で尻尾を揺らしているルクリは逆に自然に寄り添った生活をしていたのだろう、ユーグはそう検討をつけていた。
それでも彼女は小さな発見に目を輝かせ——例えば、水底に魚の影が見えたとか、岩肌に沢蟹を見つけたとか、ユーグとは違う楽しみ方、その感性を持って彼女は水辺を歩いていた。
何かがその琴線に触れたのか、湛えられた澄んだ水——透明でありながら青く色づいたそれを眺めていた彼女の尻尾が感情に合わせて揺れた。

「どうして水は青いのかしら？」
ルクリは疑問を口にした。彼女の草原の瞳は、目の前を流れる水を見つめている。
ユーグは特に興味も持たない様子だった。重ねて言うと、様々な分野の学問を齧っていた彼ですら、ルクリに対して答えるための知識を持ち合わせていなかった。
「さて……生憎、私には分かりかねるね」
お嬢さんの方が自然に関しては詳しいのではないか、とユーグは付け足すもルクリは首を振った。
彼女はさも意外そうに、水辺とユーグを見比べている。
「貴方にも知らないことはあるのね」
「勿論だとも。多少の知識は持ち合わせているが全てを知っているわけじゃないさ」
面白味の無い答えに失望したのかそうでないのか、ルクリはふうんと続けると彼女が気に入っているというツグミの隣に並んだ。
彼女はユーグが絶対的にツグミを守っていることを理解していた。例えば無粋な問いや振る舞いをツグミにしようものなら、険しい顔で敵意を向けてくる。彼女がそのような行為を働くことは無いとしても、ユーグの前で（彼の基準に即した）不用意にツグミに近づくものなら彼の眉間には相応に皺が刻まれることをルクリは知っていた。それでもツグミのことをもっと知りたい、仲良くなりたいと純粋に思っているのだ。

「ねえ、ツグミくんは知ってる？」

答えが返ってこないことを知ってか知らずか、ルクリはツグミにも同じく問いかける。
ツグミはその問いに反応しなかった。しかし、その視線はルクリを飛び越し——その先の水辺を見ていた。


＊＊＊＊＊＊

「ねえ、どうして海は青いの？」
少年は「なぜ」「どうして」と問うことが好きだった。それは時に自然の摂理や常識とされた行為など、子供の思考に満足の行く答えを渡すことが難しいものにまで及んでいたが、兎に角少年は何かを問うことが好きだった。
正確には問うことではなく——それに対して、傍に居る人が答えを返してくれることが好きだった。
首を上げて彼女を見れば、いつも少し困ったような、それでも穏やかな瞳で見つめ返してくれる。
決まって彼女は正しい答えでないにしろ、少年の疑問をくみ取り、受け止めていた。

「そうねえ」
彼女の答えは決まってその言葉から始まる。
彼女はいつも少年の手を握っていた。それは時に右手であり左手であったが、片方の手を繋ぐことで危険から守り、もう片方の手を自由にすることで少年に新たな発見を探すように願っていた。
その時は彼女の右手と少年の左手は堅く結ばれており——少年はあいた右手で、帰り道に見慣れた海を指していた。
彼女と少年が暮らす家は三方向を山に囲まれた一帯だったが同じように海も近く、外へ出る際には遠回りをしても海が見える道を通るのが二人の決まり事だった。少年は山に囲まれた屋敷で育ち、こうして外へ出る機会には海に触れ、自然から多くを学んでいた。
日の光が木々の間から零れ落ちる輝き、砂浜に打ち上げられた貝殻から響く波音、小鳥の番が巣を作る様子。
それらは皆少年が自ら見つけ出した自然の美しさだった。

今日は海だ——彼女は微笑んだ。
そうして、少年が指す海の先、湛えられた海水よりいくらか薄い色をした晴れた空を見やる。
「きっと、お空の色を映しているのね」
彼女によく似た、細くしなやかな黒髪の間から覗く瞳は、いくらかの驚きと歓喜に満ちていた。
「お空の色……じゃあ、お空がまっかだったら、海もまっかになる？」
「そうねえ、きっとそうね。今度は夕焼けの時に来ましょうか」
少年は答えを貰っただけでなく、今度は違う時間帯に来ることが——もう一度、彼女と外を歩けるということを理解し、頬を紅潮させた。
歩く速度に従って振っていた手を、繋いだ側だけ大きく力を込めて振る。

「ねえ」
「うん？」
波音に包まれた道のりが終わりに近づき、今度は木々のざわめきが聞こえだそうとしているときだった。
「おさかなは、海を出るとしんじゃう？」
「……そうね」
彼女は少なからず驚いていた。少年の口から死生観にまつわる言葉が飛び出すのはこれが初めてだった。
少年の瞳は少し伏せられていた。死を悼むのではなく、どちらかと言えば深く思慮しているが故に。
「でも、ぼくが海にずっともぐってると、ぼくはしんじゃうでしょう」
「……ええ」
びょう、と風が背後から吹いた。海の湿り気は陰気な鼻をつく匂いを伴って二人の髪を弄った。
その風に乗せて、隣の少年の小さな呟きは彼女の耳元に届いた。

「……海ってふしぎだね」

「冷えてきたわ。お屋敷へ戻りましょう」
彼女は少年の手を繋ぎなおすと帰路を急いだ。
美しい光を湛えた海。あの底の見えない水が、今ばかりは少年の全てを奪い沈めてしまうような気がしたからだった。
そう、全てを——彼女に無邪気に問いかける純粋な声も、自然の全てを受け入れ、一つ一つに動かされる心すらも、全て。


＊＊＊＊＊＊


「………………………………どうして…………」

小さな、掠れた声がした。
「えっ！」
その声に驚いたのはルクリだった。勿論ユーグも同じだったが、彼は驚くと大抵の場合声を出すことを忘れてしまう傾向にあった。
自分の問いの少なからず反応してくれたのだ、とルクリは判断した。満面の笑みでツグミの空いたほうの手（片方は、当然のようにユーグが自らの手と繋いでいた）を握り、目いっぱい振る。尻尾はそのリズムに合わせて同じように上下に揺れていた。
「うんうん、どうしてなのか知りたいのだけど、ツグミくんは——……」
ルクリの少しだけ強い力に、殆ど力の籠っていないツグミの体は振り回されていた。ユーグがそれを止める間もなかった。
「…………………………………………」
一言発した後、ツグミはその口を再び開くことはなかった。
その目線は最初と同じように水辺に向けられていたが、異なる点は彼の視線の先にいつの間にかあるものが現れていたことだった。
ユーグには見ることが適わないもの——エンブリオ。
一羽の白鳥が水辺に揺蕩っていた。
水面に浮かぶ姿は静かで美しく、しかし水面下の足は浮くために懸命に水を掻いている。ひとつの汚れもない純白の白鳥は、ツグミが見ていることを感知したようで、水際のすぐ近く、手を伸ばしたら届く距離にまで進んだ。

ツグミの目の前で静かに頭を垂れるその姿は、自らの生き様と目の前の人間の生き様を重ねた上での共感と悲しみを表すかのようだった。
お前の生き方は、私と同じではないと。
水面の下、遥か底に閉じ込められたままではいけないと言うかのようだった。
彼がその姿を見て何を思ったか、誰にも分からない。