魘されるような夜から一日、そしてもう一日。
日が経つごとに、私は冷静さを取り戻さなければならないと感じていた。そう装うことはいくらか可能ではあったが、本心はまだ穏やかでないままだった。恐らくはエンブリオの仕業であるという、あの神秘的な光を見たときの胸のざわめき、それらはとうに収まってはいた。
私の心を苛立たせるのはエンブリオの——ツグミが契約したのはもうどうしようもないことではあったので、そうではなく——その特性にあった。
ほんの少し生命力を差し出すだけで見合った対価、つまりはエンブリオが持つ力を貸すという特性。
契約を交わせば強制的に執行されるそのシステムに、私は少なからず苛立ちを覚えずにはいられなかった。ツグミの生命力が私の与り知らぬところで消費されるという事実を、当然ながら私が承知するはずがなかった。
全てはそう、私の見えないところで事が進んでいるということに私の苛立ちはあった。
私が何かを一定以上信用するとして、その度合は底の見える相手という基準に起因する。例えばルクリやトーカ、少なからず裏表の少ないように見える相手ならばこちらも素直に言葉を交わしもするし、百日紅やセロのように腹の底が見えない相手にはそれなりの対応をするというのが私の処世術でもあり、生き方でもある。態度の変化を受け取らせないようにするにも、わざと受け取らせるように振る舞うにも相手次第というわけだ。能力者という疎まれた立場であった以上、常に相手よりも優位な状況を作り出すことが生存への近道であった。そう、見てくれだけでも。相手の立ち位置、弱み、何もかもを一瞬で、少しでも理解出来なければならなかった。
それはつまり——相手が見えていなければ。
（見えない相手に優位に立つとは……見えないというだけで、それだけで、私よりも絶対的に優れているじゃないか）
分かり切った話だ。それを知覚出来る点で見れば、私よりもツグミの方が対等に渡り合っている。その事実を考えれば考える程、眩暈がやってくるほどだ。
見えないものを見えさせるようにする術があったとして（一言上手く添えれば、真那霞辺りが方法を確立させそうな話だ）私がそれを飲むかといえば、皮肉なことにそれも私の性分が許さなかった。
相手と同じ土俵に立つのでは意味がなかった。その一歩先を行かなければ、上手く渡り合えることは難しい。

手入れされた花を見つめながら、固くツグミの手を握りながら、私は自身の不恰好で下手糞な生き方を反芻していた。
私たちの数歩先をセロが歩いている。私たちよりは随分周りを警戒し、用心深い様子だった。敵の気配を読むことに関してはいくらか経験があるものの、セロやカレンといった、勘を鍛えぬいた者たちには及びもしなかった。
それには何も心を動かされることはなかった——例えば、セロよりもいくらか社交術に長けている自信はあった。社会的に信頼されるならば、幼い見た目のカレンよりは私だ。
浅ましい話だ、と心底思わずには居られない。それと同時に、そうしなければ生きられないとも理解していた。

私の乏しい経験の上に成り立っているという前提だが、この近くに敵と呼べるものは居ないと断定した。
女性陣が一人もいないという見た目もむさ苦しい行軍であったが、私にとってはその方がいくらか気楽だった。
これもまた性分のひとつなのか、血に染み込んだ性質なのか——女性が居る前では気を遣っている方で、それが居ないとなれば随分と肩周りが気楽になった気分がする。ぐるりと空いている方の肩を回すと、私は後ろからセロに話しかけた。
「セロ。一つ聞いてもいいかい」
「…………なんだい」
少しの間、私はそれに少しの呆れと苛立ちを感じた。随分お喋りな男だ、と思われているのかもしれない。

「君は、エンブリオをどう考える？」
横を歩くツグミの視線が、頭と共に方向を変えるのが分かった。元より彼は、余程のことがない限り意味ある視線を持つことはない。ただ視線を落とす位置を変えたに過ぎなかった。
少しの間を置いても、セロの返答はなかった。寡黙な者ばかりが集まっていることに気付いた私は、もう一つ言葉を投げかける。
何ということはない。手入れされた庭園というのは意外性や新たな発見というべきものが全くなく退屈なのだ。
「見えないものを信用しろというのは、私には中々難しいようだ」
「……使えるものは使えばいい。それだけじゃないのか」
ビジネスライクが極まったような返答に私は笑みを浮かべた。
やはり私が見立てただけの（大したことはしていないが）男だけはあり、仕事という観点で見るならばどこまでも私と似ているものを感じた。しかし大きく違っているのは、彼と私の生き方だった。目的の為に使う価値ありと見なせば躊躇わないセロ。そのものより何か一つでも優位に立たないと、そのものの底が見えないと使うに至らない私。

「姿も見えない、底も計れないようなものを使え、か。悪魔に魂を売るような話だ」

どう見る、と投げかけておき返答を得たものの、それを横に放るような言葉が口からついで出た。疲れているのかもしれない。
セロが背中越しに一瞥するのを捉え、私の目は少し細められた。
「愚痴を言うなら他所でやってくれないか」

今の私を言い当てたような言葉を受け止め——その的を得た言葉に、私の口は自然と笑みの形に歪められていた。
「愚痴？　……ふふ、はっはっは、それはすまないね」
声を上げて笑う私を、いよいよ胡散臭いものを見るような目でセロが見ていた。隣のツグミの視線もこちらに向けられている。
何のことは無い。セロの言葉は私の本心をついていた。
見えざるものへの苛立ち、傍に居るものへと向けられない感情を、私はこの男に——麗しい女性たちではなく、この男に投げつけていたらしい。
ひとしきり笑ったのち、気楽さが随分と増したような気がした。
しかしながら、私の本心を狙ってかそうでないか言い当てたセロが少し——気に障ってしまったのも事実だ。
いつもの笑みを貼り付けて、私は口を開いた。
「いや、君は本当に、利用するしないで物事を見ているのかとまで錯覚してしまうよ。どこまでも目的の……ああ、目的が何なのかは知らないが、本当にその為に生きている」
「………………」
「君をスカウトして良かった。……精々君に利用価値があると思わせられるよう、働くとしよう」
眼鏡の奥の瞳がいつも以上に険しくなっていることに私は満足感を覚えた。
底を見極めなければ渡り合えないという性分は、時に人の本心を読むことにも転用できた。そうすれば有利な状況が増えていくということを私は経験則で知っている。

「いくらか本当のことを言い当てられるというのは嫌かい？」
返答はなかった。しかしそれが答えであるということは明白だ。


「私も嫌さ。だから仕返しだよ」


見えないもの、感じることのできないものに渡すものは何一つ無かった。
エンブリオにしろ悪魔にしろ、私の魂を奪うことを許す道理などありはしなかった。
ツグミが受け入れたそれを、私はどこまでも否定していた。いずれ優位に立てるまで——頑なに生き方を変えることを私は拒んでいた。
そうすれば、今までの私が崩れ去ってしまうような気さえしていたからだ。
ツグミを守るのは私の力だ。それはこの先も揺るがない事実だ。
私はこの先も、未知の力を借りることはない。

ツグミの視線の先で、エンブリオの光が瞬くことに私は気づくことはなかった。