あちこち打ち身切り傷だらけになり、痛むであろう身体を引きずり起こしながら敵であった少年がそう口を開き、イリスは首を傾げた。

目の前の少年はエンブリオだという。
しかしイリスはすんなりとそれを信じることが出来なかった。
彼女にとってエンブリオとは『視えない』存在なのだから。

疑いの眼差しを向け、鞭に手をかけたイリスに少年は慌てて頭を振った。

体中に真っ赤な筋跡を残し、そしてそれが痛むのであろうザントマンの少年は、それでも自慢気な表情を見せつつ誇らしげに語り始めた。

しかしイリスの冷静な指摘を受け、苦虫を噛み潰したような顔になるのに時間はかからない。
事実彼ともう一人の傍らの砂撒き攻撃で眠りに落ちた仲間は居ないのだ。
はっきり言ってイリス達にとっては無駄な行動ばかりで、実に彼らは与し易い相手だったといえる。
予想以上に早く決着がついてしまったのが何よりの証拠だ。

戦士なら、という言葉にイリスは思考の余地を広げた。
魔法的な能力はどうもこのザントマンの少年は弱いらしい。ロイやアエレアにとっては恐らく大した力にはならないだろう。
だが、同じく魔法的な能力がからっきしで、物理的な技に頼らざるをえない自分は、と考えれば。

損得勘定の上でも価値はある。
そして、自分の好奇心を満たすためのチャンスがやってきたとも思えた。

イリスはあくまでそっけない素振りを装いつつ、ザントマンの少年に問う。

ザントマンの少年は首を傾げつつも、“わかった”と快活に答えて、更に言葉を続けた。

少しバツが悪そうに頬をかきつつザントマンの少年は、声を潜める。

砂地の上に改めてあぐらをかいて座り直し、ザントマンの少年は目を閉じる。
初めてのエンブリオの契約に、イリスの胸は否応にも高なった。
少しだけ不安になって、傍で様子を眺めていた仲間たちに視線を投げかける。
大丈夫、という風にマオが満面の笑みを浮かべ、頷いた。
それがイリスの後押しとなり、彼女はザントマンの少年と向き合い、そして——。

大事なことを聞き忘れていたと既の所で思い出す。

この少年の名だ。
エンブリオという存在に人間のような名前の文化があるかは定かではないが、イリスは一応聞いておきたかったのだった。

どうやら、名前の文化はあるらしい。
それでも今聞きたいというイリスに、ザントマンの少年は首を傾げるばかりだった。契約した以上は傍にいるのだからと言いたいのだろう。

だがイリスは、不安が拭えない。
最初に契約していたらしいシルフの声はまだ聞こえない。
契約してしまった時点で、彼の声が聞こえなくなってしまうのではないかと思ったのだ。

小さく頭を下げ懇願するイリスに、ザントマンの少年は怪訝な顔をしつつも答えた。

ザントマンの少年、フィン。
彼の名前をしっかりと頭のなかに刻み込み、イリスは今度こそ、契約を成そうとする。
厳かな口調で発し始める。
契約の言葉を。

静かにフィンの目が開かれ、彼は答え返す。

一陣の砂風がイリス達の横を通り過ぎた。
それは眼に入ることもなく優しく通り過ぎて行く。

砂粒の一つ一つが輝き、イリスの目前を通り過ぎる。

フィンの声が聞こえたと思えば、彼の姿が無くなっている。
砂風と一緒に跡形もなく消え去ってしまったようだった。

声も勿論聞こえない。
契約は果たされた、その言葉を最後にして。

自分と契約したことで、シルフと同じように姿も見えなくなり、声も聞こえなくなってしまったらしい。

いずれ見えるし聞こえるはずだとマオにも励まされて前向きになっていた時だっただけに、一度姿を見、会話もしたエンブリオの姿や声が見えなく、聞こえなくなってしまったという事実はイリスの胸を痛ませるのに十分だった。

優雅な動きを見て、ほぅ、と溜息をつきました

そう言って微笑みます

腰に下げた剣の柄を指でなぞりながら続けます

握手を交わして、イリスちゃんのすぐ隣に座って。
大きな黒い尻尾がぱさりと動く

そう言うと器用にチーズを受け取り、もそもそと食べ始めた

＞アエレアのこと

イリスと同じく視線を向けたまま、遠くからアエレアを見守っている。

イリスのやや大人びた振る舞いに笑みを浮かべる。
ちょっと背伸びしているようでおかしかったから。

ちょっと冗談めかしつつ、二人を一度交互に見る。
その視線は、自身の弟に向けていたそれのようで、なんだか懐かしい気分になった。

＞エンブリオのこと

イリスの後頭部辺りの中空を眺めながら微笑む。

＞ロイの服

そんなことを言いながらも、自分の身に着けてるブラウスに視線を落とす。職人顔負けといったところの出来だと思う。
お礼を言わなくては…というイリスにはこくりと頷き同意する。