どこまでも続いているかのような青い空。
ふかふかと気持ちよさそうな白い雲。
キラキラと宝石のように輝く青い海。
ワクワクとドキドキがない交ぜになった不思議な感覚。
高まる胸の鼓動を抑え付ける術など、最初から持ってなどいなかった。



「うわあ……！」



目の前に広がる風景に、自然と感嘆の声が上がる。
今まで人が足を踏み入れた事がないのだろう。白い砂浜は当然、足跡一つ付いていなかった。
それを素足で踏み締める行為は、まるでいけない事でもしているかのようで、何故だか酷くドキドキした。
タンポポ荘の管理人の一人——ポポロ・ダンドリオン——が持ってきたチラシがきっかけとなり、ハディートは今ここに居る。
チラシに躍るサマーバケーションと言う言葉。その名の通り、夏を満喫しようとするイベントだ。
彼女はそこで屋台をやりたいと言い出し、タンポポ荘の住人達に声を掛けた。
ハディートも手伝いを申し出、タンポポ荘を飛び出した彼女の後を追いかけ、ここにやってきたのだ。
屋台と言えばまず食べ物だろう。だが、ハディートは料理は不得意だ。さすがに野菜を切るぐらいは出来たが。
それでも食材を運んだり、盛り付けぐらいは出来ると手伝いを申し出たのだが、なんにしても屋台がなければ話にならない。
サマーバケーションはまず屋台作りから始まった。
自分でもそこそこ活躍出来るだろう力仕事があった事に、正直なところ安心した。
その屋台作りも鍛冶屋の親方である青年——ヴァルト＝ヴィントシュティレ——によって、スムーズに行われたと言えよう。
屋台が本格的に始まるまでまだ時間があるため、自由行動を取る事になったのだった。
まず海で泳ぎたいと言い出したのは、もちろんハディートだ。
クイトは特に何かしたいとは思わなかった、と言うより何をしていいか分からなかったため、
ハディートがやりたい事をやろうと決めていたからだ。
パアルは聞いたところで喋る事もなく、勝手にどこかに行ったりもせず、普通についてきたために同じ事をやろうとしているのだ、
とハディートは解釈した。
ハディートと同じように海で泳ごうとする者。広げたパラソルの下で悠々と読書を楽しむ者。近くにある森に森林浴をしに行った者。
各々自分なりの夏を楽しんでいるようだ。
海で泳ぐ組のほとんどが体操をしているのを見かけ、ハディートも見様見真似で準備運動を済まし、
青い海にいよいよ足を踏み入れる。
ザアッ……と足の指の間を波が撫でていった。
ザブザブと水飛沫を上げながら先へと進んでいく。
胸まで海水に浸かったところで足を止める。2mを超えるハディートが胸まで浸かるという事は、
砂浜からそこそこ歩いてきたという事だ。
足元の方からひんやりとした感覚が伝わってくる。じりじりと照り付ける日差しに火照った身体には、とても心地よかった。
何故だか無性に深呼吸をしたくなって、深く深く息を吸った。
濃い潮の香りに胸が満たされていくような気がした。
目を開ければ日差しを反射する海原が飛び込んできて、少し眩しい。

「どうした？ハディート。泳がないのか？」

遥か遠く、水平線を見据えたまま動かないハディートを不思議に思い、クイトは話し掛ける。
ハディートははた、と気付いたようにようやく視線を動かし、クイトに向かって困ったように笑った。

「ごめん。なんだかすごくて」

どうやら眼前に広がる美しく壮大な景色に圧倒されてしまったようだ。
そういうものか、とクイトは思う。ハディートと旅を続けていけば、そういう感情も理解出来るようになるだろうか、とも。
ハディートが元居た世界に戻るまでには理解出来るようになりたいと、漠然と考えていた。

「クイト」

「なんだ？」

「泳ごう！」

「ああ」

沖を目指すためにさらに歩みを進める。ここまで来るとずいぶんと進みにくい。
肩まで浸かる辺りまで進んだところで息を吸い込み、豪快に音を立てながら泳ぎ始めた。
中は思った通り、いや、思った以上に澄んでいて、差し込む日差しがカーテンのようにゆらゆらと揺れながら、
白い砂が敷き詰められた海底を照らしている。
少し泳いでいくと一気に深くなっている場所があり、そこには大小様々、色とりどりの魚達が優雅に泳いでいた。
ここで息苦しさを感じ、呼吸をするために一旦浮上する。

「ぷはっ……！すごいね！見た事ないお魚さんがいっぱい！」

興奮を抑え切れないまま、ちゃぷりと顔を出したクイトに言った。

「ああ。私も見た事がない」

「クイトも？あ、そっか。クイトはまだ生まれたばかりだもんね」

「海に来た事も初めてだ。私はハディートと最初に出会った場所から、外に出た事はない」

「え？そうだったんだ？じゃあ、いっぱいいっぱい楽しまないとね」

ハディートは一瞬驚いた表情を見せ、すぐに人懐こい笑みを浮かべた。
知識だけではなく、実際に体験してみたい。そんな感情が芽生えてきたクイトは頷いていた。
もちろんハディートと一緒でないと意味がない。
ふと日差しが遮られる。
一瞬きょとんとするハディートだったが、それもすぐに笑顔になった。

「パアルも一緒に泳ごうよ！」

パアルが海面より上、波に当たらない程度の位置に浮かんでいた。
今までの行動を振り返ってみると、パアルは言葉を理解していると判断出来る。
ハディートが取っている行動の意味も、きっと理解している事だろう。
パアルからすぐに反応は得られなかった。
気まぐれでついてきただけなのかと、少し残念に思ったところで突然どぼん！と大きな音がする。

「わっ！」

大量の海水が顔に掛かった。
どの世界でも海はやっぱりしょっぱいのかと、ほんの少し海水を舐め取りながら考える。
ぶんぶんと頭を振ってから目を開くと、パアルが首から上を海面から出していた。
まるで自分も泳ぐ、と主張しているようで。
ハディートにはそれが可愛らしく見えたようで、堪え切れずに噴き出すと声を上げて笑い始めた。
こんなに大笑いしているハディートを見たのは初めてだった。
家族と離れ、一人知らない世界で慣れない戦闘に参加する日々。
ハディートは大丈夫だと言っているが、知らず知らずの内に気を張り詰めていたのだろう。
来てよかったのだとクイトは思う。

「よし！今度は深いところに行ってみよう！」

そう言うや否やハディートは潜っていった。
翼を畳み、尻尾を真っ直ぐに伸ばし、極力抵抗をなくして泳いでいく。
クイトは翼のように広がった部分をはためかせ、空を飛ぶかのように泳いでいる。
パアルはあの身体でどうやって泳ぐのかと、今さらながら疑問に思ったが、
地上となんら変わらず滑るように海中を進んでいる。
どういう力が働いているのか。とても不思議だ。
水深が深くなるにつれ、周囲の色が青から紺へと変化していく。
人が入っていないおかげで魚達も警戒心が薄く、ハディートが近付いていってもあまり逃げようとはしない。
好奇心が強い魚も居るようで、まるで観察するかのように近くを泳ぐ魚も居る。
中には明らかに魚には見えない生き物も見かけたが、後でクイトに聞いてみると魔物とエンブリオも居たようだ。
泳いでいる時に襲われたらたまったものではなかったが、ここに居る者達が特別大人しくて助かった。
ふと岩陰からハディート達を見つめる影。
ハディートは魚達に夢中で気付かない。クイトも気付いていないらしく、ハディートと共に海面へ浮上していく。
パアルだけが岩陰に顔を向けていたが、ハディートの後を追いかけるように背を向けてしまった。
影は動かない。ハディート達がここに留まっているからだろうか。
数分後。もっと奥に行ってみようとハディート達が移動し始めると、影もまた追いかけるように岩陰を縫うようにして、
海底を進んでいく。
影が去った場所では、1mは軽く超えているだろう魚の残骸が、小さな魚達に残った身を突かれていた。

またか、といった表情でセオ。

誰がどう見ても硬そうな——はずの、『水晶』の角を指さし催促する。
並大抵の硬さの派では欠けてしまいそうだ。

ふふっと、愛想笑いをしてみせる。

少し顔を伏せ、思考をめぐらせる。

何を話すべきか、と考え込む。
自分のことも、今まで訪れた世界でのことも、味気ないものばかり思い浮かぶ。