「俺には無理だ」

　初めから分かっていた。

「余計な心配も、迷惑も、掛けたくない」

　いずれ、こうなるのだと分かっていた。

「アリシアが寂しがるぞ」
「……」
「……オレだって、シズが居ないと寂しいよ」

　分かっていたし、ほんの少し離れるだけだ。
　寂しさは無かった。
　ただ、ただ、無力だと思った。

　足を引っ張る為に一緒に居るわけではない。
なのに、一緒に居ると、それだけで足を引っ張ってしまう。
どうするべきが正しいかなんて、最初から分かっているのに。

「……馬鹿か、お前」

　言わなくたって分かっている。
　コイツは馬鹿だ。 本当に。 どうしようもなく。

「お前とアリシアなら、大丈夫だろ」


＊

＊

＊


　くすんだ青と、白色の森の中を歩く。
　自分が今、この森のどの辺りを歩いているか、だとか、この森の広さだとか、そういう、詳しいことはまだ、ルカにはよく分からない。
　この森が自分の夢の中なのだということくらいは漸く分かってはきたものの、分からないことの方が多いことは明白で、だから、それを知りに来たのだ。

「──レーヴ、」

　白い茂みの奥を進みながら、自分の夢の中に住みついた、くすんだ青色のウサギの名前を口にする。
　ざあざあと木々が揺れ、木が、森が風に吹かれ、散り、形を変える。
形を、姿を変えた森は、様々な青と白を散りばめたような、花畑になった。

「呼んだね、ルカ」

　何処からともなく現れた、花畑と同じ色をしたウサギが、ルカを呼んで返す。応える。
　レーヴには、目であるとか毛並みといった、そういう“生き物らしさ”が無い。
影絵のように、これはウサギだと分かる形を取っているだけで、もしかするとウサギでは、ないのかも知れない。
レーヴだけではなく、この夢の中にあるものの、殆ど全てが影絵のように見える。
ただ、色はあるので、影絵と言うよりは、もしかすると、切り絵の方が近いかも知れない。

「何を知りに来たんだい、ルカ。 きみの知りたいことを、僕は知りたい」
「……レーヴも、何でも知ってるんだなぁ」
「きみが分かりやすいだけだよ、ルカ。 それに、僕よりも、きみの友達の方が物知りだ」

　話が早い、というやつだ。
　夢の中に住むレーヴは、ある程度、ルカの身に起こったことを知っているようだった。
分かりやすいという指摘と、シズのことかと気付けば、ルカは照れ臭そうに笑って。

「レーヴより、シズの方が物知りなのか？」
「……物知りという言い方が正しいかは分からないけれど、そうだね」

　彼は少し、知り過ぎてしまっている、と、レーヴは言う。
それがどういうことなのか分からないルカは首を少しばかり傾いだが、レーヴはそれ以上、何も言わなかった。

「それで、ルカ。 きみは、何を知りに来たんだい」

　今度は、レーヴが首を傾ぐ番だ。
小さく首を傾いだレーヴはルカを見上げるようにしていて、ルカも（見当たらないものの）、目を合わせるように、自分を見上げるレーヴを、見下ろしている。

「訊きたいこと、いくつかあるんだ」
「構わないよ。 ルカが知りたいと望むなら、教えよう」

　こくりと一つ、レーヴが頷いて返した。
　ルカは、無い語彙の中からどうにかして、伝えるべき言葉を探し出すところから始めなければならなかった。
もし、この場にシズが居たなら、自分は二人の会話を、横で聞いているだけしか出来なさそうだと、頭の隅に思ったりもした。

「オレ、この前、エンブリオの──ええと、そうだ、マーメイドと契約したんだ」
「知っているよ」
「けど、契約した途端に消えちまって、それっきり、姿が見えなくてさ」
「……」
「マーメイド、何処行っちまったのかなって」

　川辺で兵士と戦う時、契約したマーメイドの力は発動しなかった。
　アリシアが新たに契約を交わしたエンブリオ──ピユのように、姿を持たなければ、その力を借りることは出来ないのかも知れない。
　ルカが契約した、レーヴのようなエンブリオは恐らく特別なのだろうと、シズは判断したらしかった。
　レーヴのくすんだ青が、ゆらり、炎のように揺れる。

「──ラルム」
「……え？」

　僅かな間を挟み、レーヴがぽつりと、言葉を落とす。
水面に落ちた雫によって波紋が立つような、聴こえる筈の無い音を耳にしたような、錯覚。

「きみが契約した、マーメイドの名前さ。 名前を知らなければ、マーメイドの力は使えない」
「……じゃあ、ラルフっておっさんと戦った時は──？」
「僕は僕だ、マーメイドじゃない。 僕の思うまま、きみに僕の力を貸しただけだよ」
「……う、……ん……？」

　レーヴの言い回しは、時折、妙だ。
　シズなら理解出来るのだろうと思う言葉が、自分の頭では、いまいち、理解出来ない。
　それを察して、レーヴは小石が転がるような軽い笑み声を零し、ルカにも分かるように言葉を選び直してくれた。

「マーメイドの名前を知っていれば、マーメイドの力も使えるんだよ、ルカ」

　ラルム。
　それが、ルカが契約したマーメイドの名だと言う。
　その名を知らなかったから、マーメイドの力が発動しなかったのだと、言う。
　覚えるように、何度か口にして、ルカが気付いた。

「……マーメイド──ラルムは、結局、何処行っちまったんだ？」

　気付かないうちに話題を逸らされてしまって、ルカがもう一度、レーヴに問う。
　すると、ほんの少しだけ間を空けて、レーヴはくすんだ青色の耳を、静かに揺らした。

「ラルムはもう居ないよ」

　ルカが目を丸く、瞠る。
同時に、居ないのなら、名前を知ったところで、とも。
どうして、とルカが問うよりも先に、レーヴがその答えを教えてくれた。

「僕がラルムの力を奪ったからだよ」
「── ……え、」

　何も躊躇うことも無く、レーヴの声は、淡々と、あっさりとしていた。
　力を奪った、と言うレーヴに対し、ルカの双眸、翡翠色が僅かに揺れる。

「……ラルムは、どう、なったんだ？」
「消えたよ」
「……レーヴが、力を奪ったから？」
「そうだね」

　消えたということは。
　それは、つまり。

「僕の力を取り戻す為だよ、ルカ」
「……、」

　どうしてそんなことをしたのかと、ルカが問うよりも先に。先に。
　ルカの夢の中に住む、くすんだ青色のウサギは、そう答えた。

「ルカ、約束したじゃないか。 もう忘れてしまったのかい？」

　青と白に塗り潰された、この夢の中で一度だけ見たことのある、生命の赤い花。
　レーヴの差し出す赤い花を受け取り、ルカとレーヴは、契約を交わした。
　同時に、約束も交わしたのだ。

「僕の力をきみに貸すと、僕は、きみと約束をしたね」
「……うん」
「それから、もう一つ」

　ルカは、その約束を忘れたわけではない。
しっかりと覚えているし、そうした物覚えは、どちらかと言えば良い方だった。
　覚えている。
レーヴの力を借りる代わりに、自分が、レーヴに対し、約束したこと。

「……“レーヴの力を取り戻す為に、多くの契約を交わすこと”」
「なんだ、覚えているんじゃないか」

　その意味を理解していたかと言えば、どうだろう。
　力を借りる代わりに、約束として、新たにエンブリオと契約を交わした。
　約束した通りだ。
まさか、レーヴがそのエンブリオから力を奪うだなんて、思いもしていなかったわけだが。

「きみのお陰で、僕は力を取り戻すことが出来た」
「……」
「けれど、まだ足りないんだ」
「……また、奪うのか？」
「そうだね」

　事も無げに言うレーヴの“力を奪う”とは、つまり、力を奪われたエンブリオの、死を意味するのではないかと、ルカは考えていた。
　自分がエンブリオと契約することで、レーヴは力を取り戻す（強くなる、ということだと思う）が、新たに契約したエンブリオは、レーヴに力を奪われ、消えてしまう。

「……ラルムは……？」
「安心していいよ、ルカ。 ラルムの力は、もう僕のものだ」
「……」
「きみは、その名前を心に唱えるだけでいい」

　一体、何に対して安心しろと言うのか、よく分からなかった。
しかし、これが、ルカ達の知りたがっていた“マーメイドの行方”であることも確かで。
　ルカは一つ、小さく頷いて返すだけに留まった。

「他に何か、知りたいことは？」

　初めて、レーヴと、この夢の中で出会った時のことだ。
　心の中を見ることが出来る、と、そう言った。
それが本当なら、態々こんなこと、訊かなくたって分かっているだろうなと、今更だが気付かされる。

「……レーヴは、エティエンヌって名前のエンブリオ、知ってるのか？」
「勿論。 きみの大事な、菫の子のエンブリオだ」
「すみ、れ？」
「アリシア・イーユスのことだよ」

　そんな名前の花があったような気がしたが、それとアリシアと、何の関係があるのだろうか。
　双眸の、綺麗な紫色のことだろうか。

「ルカ」

　すみれいろ。
思い出すのは、今と昔で、異なる、その、色。
　レーヴの呼び声に、記憶を遡ることを止めると、目の前に居た筈のウサギの姿が無くなっていた。
まるで、そこには何も居なかったかのように。
　様々な青い色と、白色の混じった花畑があるだけだった。

「菫の子から、目を放してはいけないよ」
「────ッ……わ……！」

　吹き抜けていく風が、花弁を攫い、そのまま、花畑すらも攫って行く。
　腕で庇った視界をも、くすんだ青と白に染まり、やがて黒く、何も見えなくなった。









「──── ……、……」

　目を覚ますと、ルカは部屋に一人だった。
　窓の外で、鳥が囀る声が聞こえる。
　
　朝焼けが眩しい。
　
　月が沈んだ。
　
　太陽が、また、昇っていく。

（どうやら、まだ名前を覚えられていないようだ……）

——イェジは　エティたちを　凝視　している　！

——少し言いよどんで。

　と、小さく、先に言っておいて。
　砂地のその先、相対するであろう敵の方を見遣った。

少年らの前に現れた女は胸の前に手を置いてもじもじとしていた。別にヘンなケがあるわけではない。おどおどとしている、話しかけるのすら躊躇う程に臆病らしい。

「————っ？」

自分も自分で唐突に現れた。非礼をわびろと言うなら詫びる所存。それくらいの気概。ジャンルカの驚きの聲にこちらまで驚き、体が蜃気楼のようにブレてしまいそうな感覚さえ覚えた。

「元気が良い、ですね」

対して覇気なく、彼女は苦笑して言う。
何度か浅く息を吸い、落ち着いた様相を保つ。シズの警戒の目には意図して意に介さず、そして彼がジャンルカを引っ叩いたのを合図にして、大きく息を吐き出した。

「成程。……ここにきてからそういう方々を多く見るようになりまして、普通に共通しうる点では、それくらいでしょうが……。ただ色々気になる事もありましたので御話を窺ったのみです」

何となく察したようにシズを眺めて述べる。

「吁々、よく言われます。変わっているとか珍しい、とか。
　……ふむ、ジャンルカさんと、シズさんですね」

彼の素直な、子供らしい言葉には微笑ましく、にこりと笑みを浮かべる。

「———なんなりと」

聡そうな彼なら何かを問う事も予見していたのだろう。先ほどのように狼狽えることはせず、両目を閉じて笑い掛け、粛々と続きを促す。

目の前で転んだ金髪の少年の前に膝をついて手を差し伸べる
買い物袋の中身が辺りに転がっていれば、それをもう片方の手で拾った

落ちていた袋の中身を手に取れば、少年に差し出して首をかしげた

けらけらけら。楽しそうに笑いながら、うさぎは宙を飛んでいる。

ぴたりと止まると、その手の鋭い爪で自分の瞳を指す。
赤と金は、きらきらと、爛々と、輝いていて。

（道中、なんとか二人の名前を覚えることができたようだ ▼）

深く息をつき、気持ちを落ち着かせようと小さく呟く。
武器を構えて、前を向き。表情は、いつもより強張っていた。

ふ、と息をついて、皆へ視線を向け——瞬く間に、表情が氷解する。

言いながら俯いて、言葉は尻すぼみに消えた。

微笑んでから一礼。深く息をついて、相手を見据えた