波の音とはこんなにも心地よいものだったのだろうか、とチセはその音をしっかりと捉える為に瞳を閉じた。
故郷のリンテントポーゼの海は、流氷に覆われ、雪原の様にも見える海の白と空の灰がまざった静寂に覆われた世界だ。

もぞり、と足の指を動かす。
足の指の間にたまった砂がさらさらと零れ、くすぐったいと思った。
昼はあんなに熱を帯びていた砂も、今は触れるとひやりとした感覚を伝えてくる。
夜になり気温はかなり下がったとはいえ、北方出身の彼女にはまだ快適と言えるものではなく、チセは砂の中に深く足を沈めた。

少し離れた場所で、明るい女の笑い声が聞こえ、チセは目を向けた。
南国の色鮮やかな花冠を身に着けた女が、恋人らしき男と仲睦まじく歩いている。
この編では、花冠を身に着けるのはごく自然な事のようだ。

チセは砂の上に寝転ぶと、曇りひとつない星空を見上げた。
黒いビロードの上に大小の宝石をちりばめた様なその空は、チセが今まで見てきた星空とは違っていた。
彼女が知っている星座をうまく見つけることができず、そのうち飽きて少女はまた瞳を閉じた。


波音だけの世界で、浮かんだのは花冠の事だった。
リンテントポーゼでは、花冠を身に着けるという習慣は無く、それを貰った時はとても特別な事だと感じた様な、かすかな記憶が残っている。
それは、色鮮やかで大きなここの花冠とは違う。
殆どが草で編まれ、マーリンカの小さな花がそれを控えめに飾るような、そんな花冠だ。

チセ、と呼ぶ声が聞こえた様な気がした。
幼い子供の声だ。
続けて、数人の笑い声が響く。
誰の声かは、チセにはわかっている。




閉じられた瞳から、自然と涙が零れ、チセはそれを拭った。
もう少しで、旅の連れが戻ってくるであろうから———

チセは周囲におおい繁る木々を見上げて呟いた。

彼らの中でその場所を訪れたことがあった者はいただろうか。

恐る恐るという様子で出てきた少女に
怖がらせないためだろうか、獣は伏せて耳をぱたぱたさせている。

少女が首をかしげるのを見て同じように首を傾げてから
撫でるような仕草に嬉しそうに目を細めて
胴の上へと伸ばされている腕に頬を寄せて擦り寄った。

そこまで言ってから、曇ったチセの表情に気づいたのか、アールはおずおずとその顔を覗き込む

はぁー…と大きくため息をつく。

チセ宛の手紙を書き始めた。
シピリカが持ち運びやすいよう、小さな紙に認めている。

料理の話題や前を行く二人の賑やかしさに、控えめながらも笑みをこぼす少女は
ようやくその緊張を少しばかりほぐしてくれたらしい。

言葉の中にほんのわずかの含みを持たせて 小さく笑いかけて見せるが、
それが何と指し示す訳でもなく、曖昧に話を流してしまう。
このように、この男…ブラックの言は大概が不得要領だ。
少女が戸惑った表情を浮かべても、それもまた身があるようでないような、
よくわからない笑みでもってあしらわれた。

「相棒との付き合いは長いのか」と尋ねられ、記憶を辿るように視線をつと遠くに投げる。

最後の一言は独り言であったのか、とても小さな呟きであったので、
あなたの耳に届いたかどうかはわからない。
うっかり溢してしまった言葉を誤魔化すように、
ブラックは殊更明るい笑みをその顔に浮かべた。

「ほら、旅は道連れ世は情けって言うだろ？」 と言っておかしそうに笑うが
どうもその口ぶりには質問を有耶無耶にしたような節が感じられない訳でもない——

チセの呼びかけにジャックはにこやかに応えた。
初対面時の可愛らしい仕草を思い出せば、自然と笑みが浮かぶ。

「にしし」と得意げに笑い、ちゃっかりチセの肩を抱き寄せる。
そうして次に続いたチセの言葉を聞いて、にやりとした笑みを浮かべる。

身を屈め、チセの耳元に唇を寄せて、低音で囁く。

興奮した様子でキラーインコにむかって口笛を吹いている

チセは不満そうだ。

少女はソワソワしている。

少女は双方で交わされるやり取りを見守っている。

目の前に十字路がある。
そこには珍しく大勢の人が集っているようだ。

その中央には一冊の……日記帳だ。日記帳が落ちている。

拾って中を読んでみるか。
いや、そんなことより正面、右、左……どこへ進むか決めるべきだろうか。

貴方は立ち止まって本を読んでもいいし、そのまま進路を決めてもいい。