鼻先に、ふわりと暖かなものが触れる。
周りに流れていた穏やかな風よりもしっかりとした形を持っているけど、
軽くつまんだだけで壊れてしまいそうなほど儚げでもある。
ぼんやりとした目をこすりながら歩いていたクリスは、
そんな不思議な感触により少しだけ意識を覚醒させた。

青い体を空にかざして優雅な光を自在に生み出す、
宙を舞うステンドグラスが目の前を優雅に横切る。

遠く先を歩くアルヴィンとモクラから大きく引き離されていたクリスは、
彼女を先導するようにふらふらと飛びたつ蝶の後を追った。
てくてくとした早歩きから、足の浮く小走り、次第に腕を振った疾走へと。
彼らに追いついたところで、案内役はいっそう高く空を駆け、
それが何かしらの合図であるかのように、3人を取り囲んでいた草と花の壁がゆれる。

隙間から生まれた芸術家たちが、天高いキャンパスの上で見事な群青の点描画を描いた。

はじめて来た協会の天井に書かれた巨大な一枚絵を見上げる新来者のように、
地に足をつけて歩いていた3人は、その荘厳さに釘づけになる。
もとより、とある人物を除いて口数の少ないパーティーだったが、
3人はしばらくの間、無言でその光景の美しさに見ほれていた。

「ねえ、チハヤ。これって——」

振り返っても、素朴な服と身体に見合わない長さの槍を振るう少女の姿はない。
彼女は、今のクリスたちとは別行動に移っているのだ。
視線の遥か遠くに写る大木。
根を強く地に張り、天高くそびえ立つ大木。



「ねえ、クリス」
「………………」
「クリス、こっち向けって！」
「そうやって、つまらないことしてるのを見せびらかすだけでしょ」
「こんどはすごいって！」
「はいはい」
「ほんとのほんと！」
「……ほんとうに？」
「うん！」
幼いクリスは、遠くから聞こえる少年の声に応じて後ろを振り返る。
少年は巨木によじ登り、虹色の果実に手にかけ、もぐ。
数メートルはありそうな高さから、果実を大事にかかえてふんわりとした草地に着地。
彼のどうだと言わんばかりの満面の笑みに、黒い影が差し込む。

彼に向かって倒れ行く太い幹が作る、死の影だった。



ぞわり、とクリスの首筋を嫌な汗がつたう。
チハヤは無事なのだろうか。無茶はしていないだろうか。
いくつかのありきたりな思考の海を泳いだのち、クリスは異常な結論へと帰着した。

チハヤは大丈夫。だって、今は自分と一緒にいないのだから。


もう一度、天に描かれた絵画を見やる。
自分たちはこの絵画の中の世界に対しての闖入者であり、
完成された美をけがす黒点だということを、今は自覚せずにはいられなかった。

足取りが重くなり、前の2人との距離がふたたび離れていく。
ふと、右横の草の壁に視線を移すと、
目の前に飛んでいた蝶が蜘蛛の巣にとらわれていた。
クリスには飛んでいった蝶の見分けなどつかないはずだが、
先ほど自分の鼻先に止まっていた蝶だろうとクリスには確信できた。

落ちていた枝で蜘蛛の巣を乱暴に破壊し、
糸で羽が汚された蝶を右手の中に閉じ込める。


クリス、きみの力が必要だ。
遠い遠い、元素の世界を救うために。それがきみの使命なんだ。

最後にそう言って自分をまっすぐ見る院長の目に映っていたのは、
悲しみと、寂しさと、それらを覆い隠すための期待と……
………………
………………
…………怖れ？


そうだ。もともと、私はこの世界にとっても邪魔者なんだろう。
かりに摂理と呼べるようなものが存在するのだとしたら、
とことん壊してしまえば、それでいい。
だって、それが私の使命なのだから。


乾ききった葉が静かに枯れ落ちるような、
地に張った薄氷をゆっくりと踏みつぶすような、
生命の営みの終わりを思わせる音がクリスの頭の中で響く。
幻聴は、クリスが手のひらの中のものを軽く握りしめる動きにリズミカルに連動していた。
静寂を確認し、指をひとつひとつ開く。
最後に伸ばした小指の爪の先には、破れた青い羽の一部がついている。
かろうじて自身を宙に繋ぎとめていた5つの拘束をすべて失った蝶は、
不完全になってしまった羽をはばたかせようともせず、
そのまま地に落ち、ぴくぴくとけいれんすることしかできなくなっていた。
隊列をなしていた蟻たちが蝶のもとに集まっていく。
数分もすれば黒山ができることだろう。

……どれだけ美しく澄んだ羽を持って、花と緑の中で優雅に暮らしていても、
この生き物は、湿った石の裏を這いずり腐臭の中で深呼吸する連中と、
根本的な部分では何も変わらない。

彼女は、自分を取り巻く世界が急速に無機質になっていくのを感じた。
黄金に輝いていたはずの夕焼けはすすに塗れた赤銅に、
両脇の草と花の壁は囚人を外に出さないための監獄に。

アルヴィンの口笛を聞き、駆ける。
道の中央に位置するのは醜い獣達の群れ。
あれを妥当するのが自分の役割であり、使命。


魔装である拳を、爪が手のひらに食い込むほどに握り締めた。

モクラはただ、相手を見つめている……

モクラは一礼をして立ち去った……

モクはある方向を指さしている……

モクは静かに武器を構えた……