河口へ、河口へ、育った村へ。
離れていたのはほんの数日というのに、戻りたい気持ちは常の何倍も強く胸を焦がす。
自然足は速くなり、大きく左右に揺れるおしりに合わせて、腰の翼が小さく開閉する。
川幅はもう随分広くなり、対岸まで、己はともかく彼が歩いて渡るというのはきっと難しいだろう。

「………あっ！」

遠くに人影を見つけた。
木製の小さな船を川に浮かべ、網を投げる初老の男。
たくましく、白く輝く腰から下、アヒルの身体は間違いなく彼女の同族であることを示している。

「おじさま！　ペタルおじさま〜！」

ぺたぺたぺたぺた、川べりを駆けて大きく手を振る。
向うも気づいたらしく、手を振り返してきた。

「よーう、ヤドランカか！　もんてきたんか！」

アヒルそのもののひび割れた胴間声は川面を走り、それを聞きつけたらしい人々が顔を出す。
白色、褐色、淡黄色…さまざまの羽根色はあれど、１人として人間の足を持つ者はいない。
まだ遠い彼らの元へ向かうには、己の短い足ではもどかしく。
肩にかけた鞄の紐をからげると、少女は水面に滑り乗った。
地上での不恰好なおしりの振りようが嘘のように、足は滑らかに水をかき、背には鞄を乗せて彼らの元へと泳ぎ着く。

「おじさま、王城のお話はうかがった？
父さまと母さまはどちらかしら？」

「よいよい、ややじゃないんじゃけ、ただいまくらい言わんかな。
王城に行とったんはお前じゃろ、聞くもなんも、お前の方が詳しかろげ。
どうじゃったん、うまいこといったん？　お役人殿は、どう言いよったんで？
ほれ、じじどんにお伝えしたらワシらにも教えてくれや。
それからのう、後で寄ってくれんかのう。
最近腰が痛いんじゃ、お前の煎じた薬がそろそろきれてきたんでのう」

出かける前と何も変わらぬのどかな調子に、ようやく少し、ホッとした。
川べりには、両親の姿も見える。
不機嫌に腕を組んだ父、川底の貝か魚でも採集していたのか、腹掛け姿で水に濡れた母。
母が手招いている。
近寄れば、むっつりとした表情の父がまだ離れたところにいる青年に向け、顎をしゃくった。

「……あの羽根なしは何ぞ」

振り返れば、置いて駆け出してしまった彼の姿。
あ、と小さく声を漏らし、名を呼び、手を振る。着いたのだと。

「父さま、あの方はエンバーさんよ〜。お城下で知り合ったの。
１人では危なそうだったから、お願いしてご一緒させてもらったの……」

説明する語尾が消えていく。平原で会った兵士のことを思い出して視線が下がる。
母がころころと笑って「まあ、優しい方なのね〜」と口にする。
父の顔がますます険しくなる。
出かける前と変わらない、のどかな光景だ。
だが、言わないわけにはいかない。
今にも「ウチの娘に悪い虫が」的なことを言い出しそうな父の言葉を遮るように顔を上げ

「父さま母さま、大変なの！　ペルハンおじい様はどちらにいらっしゃるの〜!?」



「ほうけ…そんな物騒なことになっとったんけ…」

訪れた客人をもてなすため、少女の帰還を祝い、報告を聞くため開かれた宴会の、その片隅で。
長老相手に己が城下で見聞きしたことをすべて伝えた。
父は、先日彼の釣った鮭の残りを使用した料理に機嫌を直し、酒を酌み交わして笑っている。
幼い子供たちは黄色いおしりを振りながらお行儀悪く駆け回り、中には初めて見る"羽根なし"の彼に近寄って、その足にちょっと触ってみたりする腕白もいる。
女たちも、料理を作り終えればすぐに宴に混ざって酒に料理に菓子にと楽しんでいる。
グラスの空いた者には「飲んでる？」、皿の空いた者には「食べてる？」と人懐こい。
オレンジソースをかけた鱒のグリル、素揚げにした川海老、マリネしていた鮭は、ライムや香草と和えてサラダに。ナマズは川海老や川蟹と一緒に、香辛料たっぷりのスープに。川底に生える水草を練りこんだパンは、ふわりと甘い独特の香りを立ち上らせた。
心づくしの膳ではあったが、王の専横のひずみは確かに出ているらしい。
皿数や種類が少女の記憶よりも心なしか少なくなっている気がした。
それでもご馳走とあらば早くそこに混ざりたい。
が、それを口に出来るほどには、少女はのんきではなかった。

「"羽根なし"の街に行きゃ、そりゃあワシらの姿は目立つしのう…。
ヤドランカが心配になったんも無理ないわなあ。
かといって、しんどいんを訴えんと泣き寝入りするわけにもいかんしなあ」

「先王様の時はこんなことはなかったんじゃげ、わしらからネクター取り上げるとか、何を考えとるんじゃ！」

同席していたペタルが声を荒らげる。
その声量に、こちらを振り返る者は多かったが、彼を嗜める者は誰もいない。
それどころか、同感であるのだろう、頷く者、同意示して声を上げる者の方が多かった。
長老はうんうんと頷いてペタルをなだめ、真っ白な顎のひげを撫でた。

「こういうわけじゃ、兵士が来てもワシらも黙って我慢はせんじゃろなあ。
普段王様面してふんぞり返っておれるんも、ワシら国民が住みよいよう、暮らしやすいよう世界を整える仕事をしとるからこそじゃのに、それを忘れりゃ誰もついてこんようにならい」

「おじい様…」

「それにえらい人数がおったんじゃろ？
世界のあちこちで一揆は勃発しとると思てよかろ。
そんならこんなこんまい村ごとき、あちらさんもいちいち攻めてきよる間ぁなぞなかろい」

目を細め、のんきな声で言いながら、もう胴体の羽毛もはげかけた長老は禿頭をつるりと撫でた。
その拍子にちらりと見える腕は、傍らのペタルに負けず太く、皺に埋もれるようにして変色した古い傷跡は袖の奥、肩から背中の向こうまで続いている。
幼いころから長老が酔うたび聞かされてきた、ワニと素手で戦って打ち倒した名誉の傷だ。
ニヤリ、笑ってみせる皺の奥の細い目は、普段の好々爺のそれではなく、気性の荒い漁民のものだ。

「そういうわけじゃ、お前は村のことは気にせんでええぞな。
もっぺん、ちゃんと仕事せえよと、王の尻を叩いてきてくれるかな。
いや、お前さん１人じゃったら言わんのじゃが…」

ちらり、今も首を隠したままの青年へと視線を投げると、長老は目を細め、口の端をぐっと引き上げた。

「面白そうなんと、知り合ったようじゃしのう？
あん人がおりゃあ心配なかろうし、魔女は見聞広めるんも修行の内じゃろ。
行ってみるんも悪なかろ。
じゃが、お前さんが嫌じゃ言うなら無理には言わんよ。
漁に支障は出るがしゃあない、ペタルにでも行かせよわいなあ」

「じじどん、ヤドランカはまだややじゃし、対岸のガチョウ村にも平気で出入りしよる分別なしじゃ。ワシの方が一揆には向いとらい！」

「じゃかあし、ペタル。黙っとれ」

血気にはやるペタルを黙らせ、長老は、こちらに向き直った。
少女の良く知る、いつもの穏やかな好々爺の顔でにぃっと笑い、

「ま、考えてみいや」

とだけ言って宴席を指差し、そちらに加わるように促した。

村の入り口に男がひとり立っている。時折、欠伸を噛み殺しながら視線を周囲へと巡らせ。
やがててちてちと聞き慣れた足音が聞こえれば、そちらへと向き直り、ひらりと軽く手を振った。

彼女が来たということは、つまり“そういうこと”だろう。
故にそれ以上は何も言わず。ギザギザの歯を見せてにんまりと笑うのだった。

宴も終わり、翌朝には決心もついたのか。
何事もなかったように、少女がお弁当を作っていた。

はい、と渡した包みの中身はサンドウィッチ。
バゲット丸々一本使って、中にはポテトサラダに玉子とベーコン。
歩き歩き、丸かじりするのにちょうど良さそう。

耳鳴りがし続ける頭を押さえながら、力なく答えた。

彼女の謝罪めいた言葉を聞き、瞬きを落としたのちに小さく笑う。
謝ることじゃないと告げようとして——声を張り上げる男たちに、そこで漸く気付いた。
舌打ちひとつ。彼女を背に、襲い掛かってくる姿へ同じだけ声を張り上げる。

隣に並んで、川べりを歩きながら。

少し遠目に見つけた人影は、同族ではないようだった。
否、水際に置かれた黒い鎧は……

エンブリオがくるくると舞う。
少女の持つ羽根ペンに留まると、エンブリオの姿は溶け、ペン先に色が宿った。