そう言うと、カリンカランは傍に落ちていた小枝を手に、しゅるしゅると砂に文字を刻む。
人から見れば小さな枝だが、体躯の小さな彼女と比較すれば、それは教鞭のようにも見えた。
ここ数日の環境からすれば、足元にありふれる砂に文字を刻むなど、叶わなかったものだが。

助かった。その一言だった。

砂地を進むことは決めたがいいが、とにもかくにも水場が無かった。
加えてこの、うだるような暑さである。
目の前に緑に覆われた水場を見つけたときは、はじめ誰もが夢、幻だと思ったものだ。
そして、その泉が近づいても消えず、浸した掌が刺さるような冷たさを感じたとき。
初めてそれが本物の水辺なのだと、全員が理解した。

暫くはここを休息の場として探索を進めていたが、黒き忍を打ち倒した後、城内へ忍び込むルートを発見した。
明日の今頃には王城の中だろう。それも気づけば、一番乗りだ。
王城へ繋がる道があること、そして未だに眼前に聳えるはこの世界の王の住まう、優美な城の姿。

不思議なものだ。王城の近くはどこも環境がぐちゃぐちゃで、入り乱れている。
この砂地も、いつかは赤い花畑だったのかもしれない。
そんな空想をめぐらせる間にも、小枝は水を含む柔らかな土に、かりかりと線を描く。

威勢よく言い放ったカリンカランの肩が上下していた。
彼女にとっては軽い運動にも等しい行為だったろう。
ハンカチに水を浸し、カリンカランの額を拭いてから少し間を置く。

こくこく、と頷いて、話の続きを促した。
情けないものだが、自分とベルエトワールの契約内容というものを、自分も厳密には覚えていないのだ。
彼と契約を交わしたのは、物心がつくかどうかの頃。
それに加えて、当時の苦しみばかりの記憶からすれば、契約内容を確認する暇も無かったのだろう。

悪徳なエンブリオに捕まらなかったことを、感謝すべきかもしれない。

そう言うと、カリンカランはうーんと首を傾げて見せた。
エンブリオは人々の生命力を糧に、彼らに能力を貸す。
その逆が出来ないのは単純な話で、エンブリオの生命力が、契約者よりも小さいからだ。
それを逆転させてしまえば、その未来は共倒れ。

しかし、その実例が実際に目の前にいては、無理だとは断言できない。
眠りについてはいるものの、目の前の少女を生かしているのは、確実に『彼』なのだ。

お手上げだ。とでも言うように、カリンカランが小枝を放り投げる。
泉に落ちたそれは、ぽちゃりという音を立てると、風に運ばれくるくると回る。

手足で先ほどの、地面のメモ書きを消す。
そして、衣服を脱いで畳むと、泉の中へとその身を浸した。

妖精のまじないを受けた服は、払えば簡単にほこりが取れるが、身体まではそうはいかない。
戦いに疲れた男たちは眠りこけていたが、カリンカランはいい顔をしない。
まだまだ仕込むべき一般教養がありそうだと、相変わらず頭を悩ませる。
カリンカランとは対照的に、水の心地よさに緊張を解いた表情のアジュガが問う。

問われ、押し黙る。
しかしそれも不自然と思ったか、小さく答えた。

アジュガもそう言われては、諦めざるを得なかった。



それ以降の問いは全て、水の音へと掻き消える。
逆さに映る王城の像を乱して、しばしの休息は続いていく。

一度は死した人間。
それを聞き目を見開いて驚いた様子を見せたが、すぐに普段の仏頂面に戻る。

アジュガの瞳を見下ろして、独り言のように呟く。
どこか人間離れした雰囲気とその理由に納得したらしい。

言葉を区切るように、力強く言った。思うところがあった様子。

自嘲が混じる。

苦言を呈したカリンカランに対しチャンダナはきょとんとした、不思議そうな眼差しを返した。
何故それがいけないのか解っていないのだ。

茫洋とした、光を宿さない瞳。どこか感謝を表すような鈍い色を讃えてアジュガを見ていた。

何を思ったかすこし黙り、

殊もあろうに貰ったばかりのネクターの束を差し出した。

ナナシはにっと笑ってみせる。と、なにか思い立ったように中空に翻り…。

そう声をかけると じゃあね、と何度か手を振りながら宙を飛び去っていった。

「矢張りそうですか。……失礼。並みの人と違って、私も匂いが嗅ぎ分けられる、もので……」

匂いの慣れた場所ならば、あなた様の云う通り理会するに及ばない環境であるかもしれない。ましてここには数多のモノがいるのだから。

「花に近しい香りには、少なからず好奇心を抱く、です。花に所縁があります、ので」

誘われた蜂のように、感覚的なモノだったけど。害の無さそうなあなた様で安堵したのは心の内だけ。
自分も蠱惑でき得る香りを自らも放っておきながら。

「アジュカさん、ですね。お気になさらず。
　異国……といえば、そうですね。ずっと遠い所から人探しでここまで来訪した次第で……。名前も顔も分からない人なんですけどね」

苦笑してにへらっと笑い、くたくたと首をもだけてそう言った。

従者のような立場にしては、割と奔放的な発言が多いようにも見えるかもしれない。

ハルが1人、会話の輪から外れたかのように天を仰いだ。

貴女の事情を聞き、ふむふむなるほどと頷いて概ね納得した様子。