ENo.937 綾辻優衣

愚かといえば、
彼女ほど愚かな者もいないのだろう。
歩みをやめればいいのに、
歩みをやめないが故に。
今までも。
そして…
これからも。
その命の灯がついえるその日まで。

…今日も生き延びた、
明日は分からない。
身体は動く。
だから…
彼女は立ちふさがる。
彼女は見つけたのだから。
狐の娘を。
古来より、
狐は神の使いとされてきた。
なれば――
娘が魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類だとしても、
神の力を身につけた存在に他ならない。
――たとえ、彼女の信じる神とは違う存在なれど、
それが神に近きものであるならば、
闘うに足る理由。
己を示すために。
己を高みに向かわせる為に。
――娘は怯えていた。
だが――
「ああ…」
彼女にとっては、
最早それはどうでもいい事だった。
手を伸ばす。
今の彼女に拳を振るいきるだけの力はない。
だから――
彼女は力を借りる事にした。
近くにあったものを拾う。
それは、
束子(たわし)。
どうしてそこにあったのかは分からない。
だが、
それに願いを込める。
神への祈りを捧げ、
空へと投げる。
祈りは通じ、
願いは力となる。
空を舞う束子はまるで、
生き物のように彼女に付き従う。
そして…
彼女は魔の力を借りる。
それは、
神にして、
魔の生き物。
身体に毒を内包するものもいる。
恐るべき存在。
それは…
「蛇」
彼女の力は未だ満たない。
だから…
それは、ただの毒のある蛇に過ぎない。
しかし…
彼女の信じる力が、
蛇に力を与える。
――それが、幻想の蛇であるが故に。
そして、
対する狐の娘は、
同じく召喚物と、
岩落としにて対抗する。
妖術の類だろうか？
慣れているらしく、
一撃は重い。
彼女は、
それが嬉しかった。
(…妖術、この身にて味わうとは、
なんという僥倖(ぎょうこう)でしょうか。
私も多少は扱えれども、
ここまで見事な術は使えはしません――！
ああ、かくも私は素晴らしい存在と闘っている――！)
娘は強かった。
とても。
恐らく、
彼女一人では敗れていたであろうことが確実な程に。
だが、
やはり、数が違った。
故に――
彼女は勝利した。
一度勝ってしまえば後は先に進むだけ。
倒れた娘を後目に先へと進む。
ただ、
彼女には未練はあった。
(神よ。勝利する事が出来ました。
これでまた一歩貴方に近づけたと思います。
ああ、されど、惜しむらくは――)
それもまた彼女の力。
故に、卑下する事はない。
けれども――
(私は、私一人の力で勝ちたい――
それが、
傲慢(ごうまん)で…
叶わぬ夢であるとしても、
いつの日か――)
欲は尽きない。
人であるが故に――

＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊

――世界は欲にまみれている。
彼女はそんな世界が嫌だった。
欲をなくす事は出来ないのは知っている。
欲があるから世界が成り立つのも知っている。
生きる事、
それ自体が、
神への信仰、
それ自体が…
欲である事も知っている。
けれど、
その欲が自分の為だけに…
ただ、貪る為にあった時…
それは彼女の目に醜く映った。
だが、
そうであるが故に自己嫌悪に陥った。
…
自分が最も醜く見えたから。
力を求める姿に、
知識を求める姿に、
――神に近づきたい姿に。
それは、
富や権力にすがり、
欲する事よりも、
更に貪欲で、
罪深い事。
そんな彼女が欲に満ちた姿を見て、
不快に思い、
嘲笑(あざわら)う――
自分の事を棚に上げて。
だから――
「――」
彼女は笑顔を浮かべたまま固まった。
懺悔(ざんげ)の言葉が終わったというのに、
彼女は何も喋らない。
「あの、どうされました？」
だからだろう。
懺悔に来た者が衝立越しに彼女に声を投げかける。
「――いえ。失礼を。
　神は貴方の罪を聞き届けました。
　――貴方を許します。」
その言葉で彼女は我に返り、
いつも通りのやり取りをした。
何人の罪を聞き届けて来ただろう？
もう、
数えきれないくらいの罪の言葉を聞いたように思う。
…彼女は神に仕えるもの。
そして、罪を聞き遂げる以上、
迷いをもってはいけないのに。
最近、彼女は迷っていた。
己の罪に気づいていたのだから。
けれど、
その罪は――
本当の罪ではない。
彼女が罪だと思う罪に過ぎないのに。
それでも――
「はぁ…」
彼女はため息を漏らした。
これで同じ事でため息をもらしたのは何度目だろう？
最早数えきれない。
そんな時、彼女はいつも神に祈っていた。
許しを請うために。
がらんどうの心であればよかったと何度願った事だろう。
何もなければ、悩みもない。
悩みもなければ、迷う事がない。
迷う事がなければ…
こうして葛藤する事もなく、
人の罪を聞いて許せるのに。
けれど、彼女は彼女自身でしかない。
だから、
そんな事は出来はしない。
だから…
ずっと悩み続ける。
他人の言葉で悩みが解決するのかもしれない。
ふとしたきっかけで悩みが解決するのかもしれない。
けれど――
彼女の悩みは解決しなかった。
それだけの話なのだけれど――
だが――
それも昔の話。
いや、神に祈るのはやめていない。
悩みは解決していない。
やめたのは懺悔を聞き、
罪を許す事。
だから…悩む原因は今は無い。
それでよかったと彼女は思っている。
そして、
彼女は全ての罪を記憶している。
最後に彼女が聞いた罪はなんだったか――
そう。
あれは確か――-右-

+中+＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊

『私は罪を犯しました。
　平凡な毎日、
　平和な日常、
　幸せな家庭。
　何一つ不自由のない暮らしを営んでいました。
　それを失いたくなかった。
　だから…
　私は許されざる罪を犯しました。
　友への背信…です。
　友は笑って許してくれました。
　けれど…
　私はしてはならない事をしてしまった…
　彼を傷つけてしまった…
　あんなに信頼して私に証拠の品を預けてくれたというのに。』
懺悔の言葉。
今なら彼女にもわかる。
彼女とて、
失いたくは無かった。
懺悔をしたものと彼女の違い。
それは別の選択肢を選んだというだけの事。
けれども――
(私もまた、罪に苛(さいな)まれている。
答えなどないのでしょうか――
どちらの選択肢も間違いだったのでしょうか？
…人は罪深い生き物ですね…
ならばせめて――
私は後悔しないよう、
前を向きましょう。
どんなに辛くても、
どんなに苦しくても――
歯を食いしばって前を。)
そして、
今日も彼女は前へと歩む。
そんな彼女の前に、
再び竈馬が立ちはだかる。
先の戦いのリベンジだとでもいうのだろうか？
ならば――
「…懲りませんね。
　素晴らしい。
　貴方は強いのですね。
　ならば、
　前と同じでは貴方に悪いし、
　何より――
　対策も立てているでしょう。
　だから――」
竈馬に向けて手を伸ばす。
召喚するは石の兵。
神の力によって動く人形。
「違う戦い方をさせてもらいます。
　行きますよ…！」
双方向からの肉弾戦。
敵は彼女だけを狙ってくる。
別にそれは構わない。
彼女には自信があったのだから。
己の耐久力…
耐える力に。
苦しい事も辛い事も、
歯を食いしばって耐えてきた。
今更肉体の痛みなどどうという事はない。
限界が来なければいい。
その思いきりが敵に勝らせる。
拳を撃ちつける。
何度も、
何度も何度も何度も。
相手が倒れ、朽ち果てるまで。
容赦なく叩き続ける。
２度と抗えぬように。
「さようなら――」
そして、別れの言葉と共に敵を撃ち倒す。
倒した後は振り返らない。
終わった事なのだから。
ただ、感謝の言葉を心のなかで告げるのみ。
彼女は神へと感謝した。
今日もまた、
自分の前に強敵を用意し、
こうして生き延びれた事を。
――生きる事、
この道を進むこと。
それは罪。
許されざる行為。
けれど、
それでいい。
それよりも大切な事。
それは…
選んだ道を後悔しない事。
それでいい。
それだけでいい。
自分がそう望んで選んだ道。
決めた事なのだから。
――彼女は自分に言い聞かせ、
今日も進む。
――明日への出来事に思いをはせながら。