ENo.602 グレイス＝シルバースター

グレイスの手記

フェルフリクス歴12年　嵐月８日

フリスト。

この否定されし者達の世界に侵入してから、２つ目の集落らしい集落に辿り着いた。
住んでいる者達もいるのだろうが、町の通りはひっそりと静まり返っている。
来訪者を歓迎するムードではないが、警戒して当然といえば当然だ。
この世界に現れた新参者とは、大犯罪者とほぼイコールなのだから。
町に住む者達もかつてはそうだったのであろうが、
もはやこの世界で生きることに疲れ、互いに諍い合う気力すらないのであろう。
隔壁破壊の報を聞いても街から出ようとしない……そういう者達の考えるところは、
概ねそういうところだと推察できる。
必要な食材の調達のみをこなして、身体を休める。明日にはここも発つことにしよう。

苦難を強いられ続けた人間が最終的に得るものとは、困難を乗り越えるための克己心ではなく、諦念だ。
諦めなくては、人は壊れてしまう。諦めた状態を、壊れたと呼ぶ者もいるが、己れはそれは違うと思う。
諦めるといっても生きることを諦めるのではない。生きること以外の全てを諦めるのだ。
全ての期待を捨て、希望を捨て、ただ諦める。
生きることにだけ集中し、それ以外へかける熱意を捨てて、
全てのエネルギーを……生きるためだけに費やす。それも、本当に最低限のエネルギーだけで。

それが出来なかったものから順番に命を落としていく。
己れは、それを目の当たりにしていた。そういう世界で育ってきたのだ。

物心ついたとき、己れは既に奴隷だった。

人間が人間を所有する。別に何もおかしいことはない。
力あるものが弱者を食い物にする、それが摂理だ。
その時の己れは子供だった。人間でいうところの最弱者。
活かすも殺すも大人次第。そういう存在だ。
だからこそ、生き延びることができていただけ、己れは運が良かったのだろう。

死は、あいつらへの敗北を意味する。
たとえ泥水を啜ってでも、生きてやる。

朝から晩まで延々と働かされながら。
他の奴隷たちが疲弊しきって倒れていくのを横目で見ながら。
己れは死んでやるものかと、ただ只管、その為だけに生きていた。

そんなある日のことだ。夜になっていつもの雑魚寝部屋に戻ると、
見ない顔が地面に横たわり、寝息を立てていた。

起こさないようにそっと顔を覗き込むと、
うす汚れてはいるが、美しい金髪をもった少女だった。
疲れきって眠っているのであろうその顔には、泣き腫らしたような跡がある。
……今日、ここに連れてこられたのだ。経緯は知らないし、知りたくもないが。

己れは胸糞が悪くなり、
少女に布切れ（毛布と呼ぶのすらおこがましい程度の襤褸だ）をかけ、
そっと部屋の隅に戻り、座り込んだ。

ここに来る奴隷達の扱いは実にシンプルだ。
男であれば死ぬまで働かされて、女であればまた別の所へ売られていく。
それも、奴隷商人が「仕入れた」であろう額の、途方も無いくらい高い値段で。
特に若い女、美しい女には高い値がつく。ここに来たすぐ後に居なくなることも多い。

今はまた世の情勢が不安定なようで、商人にとっては仕入れ時、稼ぎ時なのだろう。
ここ最近のあの忌々しい奴隷商人はいつになく機嫌がよさそうで、
あのでっぷりとした腹回りが、また一層大きくなった気がする。
文字通り、私腹を肥やしているのだ。自分と同じ存在であるはずの人間を、金づるとしか見ていない。

苛々としていると……少女にかけた布切れが、もぞもぞと動いた。

少女はその場で起き上がり、部屋の中を見回して少し、驚いたような顔をする。
寝てしまう時には、恐らく部屋には彼女しかいなかったのだろう。
その時居なかった男達が帰ってきて、
皆死んだ目をして、虚空を見つめていたり、死体のように眠っていたり。
その異様な光景を見て、少女はまた小さくうずくまる。

さぞ、恐ろしいことだろう。辛いことだろう。
こんな掃き溜めに入れられて、哀れとしか言いようがない。
だからといって、己れにできることなどない。
なぜなら、己れは己れ自身すら、救えていないからだ。
特に声をかけることもせず、眠りにつこうとする。

……そこで、部屋の壁際で本を読んでいた、
別の奴隷が、すっくと立ち上がったのが視界に入った。

歳は己れと同じくらいで、身長は己れよりも低い。
己れよりも前からここにいた奴だ。
身体はガリガリで、見るからに栄養が足りていない。
だが、いつも不思議と誰よりも余裕がありそうに見える。

そもそも奴隷の身で、本をここに持ち込んでいる事自体に違和感を覚えるが……
昼間は己れと同じかそれぐらい肉体労働をさせられて、
夜中はずっと、星の光が入る天窓のそばの壁際に張り付いて、
同じ本を只管読んでいる。気味の悪い奴。

そいつが、何を思ったのか新参のもとまで近づいていった。
うずくまり顔を膝に埋めている少女の直ぐ側まで来ると、正面に座り込み。

　“顔を見せなさい。”

とだけ、言った。

……相変わらず何を考えているのか、さっぱり分からない。
少女は声をかけられて一瞬びくっとするが、顔をあげようとはせず、小さく小さくなる。
ガリガリ野郎は動じず、そのまま正面に座って待つ。

長い時間が流れる。

少女が、そっと顔を上げ、そこにいる奴を確認してまた顔を下げる。

……なんなのだこれは。
立ち上がり、ガリの横まで言って、顔を見ると。

そいつは今まで見たことのない表情。
今まで見てきて、はじめて表情が感じられる顔をしていた。

何かに驚愕しているような、目を見開き、少女のことを見つめている。

　“おい……”

と、己れが声をかけても、上の空だ。
ふと気がつくと、少女が少し顔をあげて、こちらを見つめていた。
が、こちらが見つめると慌ててすぐに顔を膝に埋める。

その二人の様子をみて……嘆息する。

と。

その時、何か……大きな音がした。
………それは少女の方から聴こえてきた音。腹の虫が鳴く声。
そちらを見ると、少女はいよいよ小さくなろうとしている。

（それ以上縮こまろうと、腹の減りは収まらんだろうに……）

己れはガリのほうを見つめる。
ガリはと言えば、もういつもの無表情に戻っていた。
さっきのは一体何だったのか……気にはなるが、とりあえず部屋の戸口まで行き。
扉の前にいる守衛に声をかけた。

　“なんだ”
　“腹が減った。食い物をくれ”
　“配給は朝だけだろうが”
　“朝の分を今くれ”
　“明日腹が減っても知らんぞ”

そういって、一切れのパンを受け取った。
うまいもへったくれもない、味のないパン。
それだけ。それが己れ達の一日分の食事。
どうせ前日の夜中から、入口のそばに無造作に積んであることなんて分かっている。
ガリがガリになるのも頷けるというものだ。
そのパンをもって……少女の元まで戻る。

　“おい。”

うつむく少女に声をかける。返事はなく、顔をあげようともしない。

　“……腹が減ってるんだろ。食え”

そう言って、少女の顔の目の前にパンを差し出した。
少女は、恐る恐る顔を上げる。

そして、パンを見て、それからパンと俺の顔を交互に見て。

ふるえる手でパンを受けとって。

じっと目の前でそれを見つめ。

一口、かじりついた。

刹那、少女の瞳から涙が溢れ出す。

いつから物を口にしていなかったのか知らないが……余程ひもじかったのだろう。
少女は嗚咽を漏らしながら、パンを食べていた。
泣きながら物を食べるなんて、器用なことができるものだ。

己れは部屋の隅に戻った。
どうせまた早朝からこき使われるのだ、眠らなければ身体が持たない。
ガリもいつの間にか壁際に戻って、横になっていた。

翌朝。
守衛の喧しい声で叩き起こされ、奴隷たちがのろのろと動き出す。
……まさに死の行進だ。

己れも目をこすり、起き上がろうとすると、
すぐそばで昨日の少女が寝ている事に気がついた。
………。少女に声をかけ、起こす。

ここに居る間は、女の奴隷とはいえ肉体労働を強いられる。
時間に起きてこなければ、守衛に足蹴にされて起こされる。
そこで、永遠に目覚めないものも中にはいるが。

少女はまだ眠たそうに目をこするが、
己れの顔を見て、昨日とは違い少し安心したような顔をした。
……哀れな奴だ。
できる限り目を合わせようとはせず、そいつに朝飯の列に並ぶように、指をさして言う。

　　　“あなたは？”

そいつが、声を出した。泣き声以外では、初めて耳にした声だ。

　“―――己れはもう食った。”

少女はこちらを振り返りながら、不安そうに列に並んだ。
他の奴隷たちは、新顔に微塵も興味を示さない。
奴らが興味が有るのは、今ありつけようとしている朝飯だけだ。

空腹を感じながら、軽く溜め息をつく。

己れはまったく、何をしているのだろう。
　
　

（明日の日記に続く）