ENo.3378 ズィグナール=フォイアー

　パチパチと乾いた音を立てて火の粉が小さく爆ぜる。
　しんと静まり返った夜の世界は、しかしそこかしこで生き物の気配に満ちている。
　街が近いせいもあるのだろう。自分達と同じく、他にも野営をする冒険者の焚き火がチラチラと闇の中で垣間見えていた。
　上手く寝場所が見つかったのは幸いだった。
　平原といっても、すぐそばには山々が連なっているここいらでは、野営に向いた岩陰がいくつもあるようだ。
　何もない場所で旅慣れない同行者達を休ませるのは気が引けたし、万が一夜襲にでも遭ったら、せっかくの術式を解除する羽目になりかねない。
　光の屈折率を操作して髪や眼の色を変える術式は、元来闇の魔力を色濃く受け継ぐズィーにとって不得手とするものの代表格だ。
　ゆえに、真名まで絡めて強引に安定性を保っている。
　魔力の大半を封じることになってまで自らの生まれ持った色を変化させる事を決めたのは、一族特有の魔力を隠すため―というのは表向きで、
実際は一度解除してしまうと、再び構築するのにかなりの集中力を有する術式のため、面倒くさくてやってられないというのが本音だったりするのだが。

『……なぁ、主よ。いくら“連中”に感付かれぬようにとはいえ、真名を持ち出してまで変装するのはどうかと思うぞ』

　不意に焚き火が不自然に揺らめき、燃え盛るその炎の中に黒に縁取られた金色の眼が浮かび上がる。
　左手の甲が妙に熱いのは、そこに眠るはずの【盟約者】が勝手に起きてきたせいだ。
　深々と溜息をついて、ズィーは煙草に火を点ける。

「何どさくさに紛れて起きてんだコラ。俺ァ呼んでねェぞ」

『つれないなー、ウチの御主人は！いいじゃねェか、学者のセンセイも悪魔の嬢ちゃんも寝てんだろ？』

「お前の魔力を感知して起き出すかも知れない、っつー考えはねェのか？」

『いやいやいや、ソレはないな！ｗｗｗｗｗ』

「草生やしてんじゃねェよ。そんでどっから来るんだ、その自信は」

『だって俺、魔狩りを生業にするでもない一般人にはまず気づかないレベルでしか出て来てねェもの』

　ズィーを主と呼ぶ声は、そんな事を言って無邪気にくすくすと笑う。
　その度に、炎に僅かな黒が混じり、薪の爆ぜる音が先程よりも大きく響いた。
　一方のズィーは、煙草を挟んだ方の手をそのまま額に当てて、煙とともにあらん限りの息を吐き出してみせる。

「……はー…」

『あ、何その溜息！ちょっとー！傷つくんですけどー！』

「女子学生の声真似とかキモいから止めろ。あと鬱陶しいから黙れ」

『酷い…！不寝番の主の退屈を紛らわせて差し上げようという、下僕のささやかな心遣いなのに！』

「あーもー…分かったから大人しく寝てろよ、ニグレド。次の“狩り”にはお前を呼んでやるから」

『やった！流石は我が主!!話が分かるねェ〜』

「はいはいはい、そりゃどうも。大人しく寝ないとナシにすんぞ」

　ベチッと左手の甲を叩けば、『イタイ！』と悲鳴交じりの声を上げたのを最後に、炎に混じっていた気配がすぅっと消え失せる。
　こうやって自分の中に巣食う【盟約者】という名の居候が、気安く表に出てきてしまうのも、真名を隠している弊害といえなくもない。
　だが、それが分かっていた所で、本来の自分が持つべき色に戻る気にはなれなかった。
　今はまだ、その時ではない…と、そう思う。
　それはおそらく、魔狩りを生業とする一族の者としての本能だろう。
　ズィーが本来持ちえる髪と翼は、あまりに闇の気配が濃い…
　最果ての世界、世界の掃き溜めと呼ばれるこの世界において、己が血族の存在を誇示するのは、完全に“連中”に勘付かれてからでも遅くはない。
　むしろ、勘付かれてからこそが、この身に宿る闇の色が真価を発揮するはずなのである。

　結局のところ、何だかんだと理由をつけつつ姿を偽り続けるのもまた、後のための布石でしかない。
　所詮ズィーは、血族の祖が【世界】と交わした【盟約】を果たすための駒なのだ。
　そのことに不満を抱くには、少々内情を深く知りすぎたし、守るべき者が増えてしまった。

　夜空に向かって、左手をかざす。
　焚き火の明かりに薬指の輪が鈍い光を放っていた。

「おとーさんは、頑張ってるぞー…」

　指輪の向こうに愛しい子供達の顔を思い浮かべながら、今は深緑となった目を閉じた。
　紫煙が灰を満たす感覚を味わい、ゆっくりと吐き出す。

　騒がしい居候の声も聞こえない今、夜はただ、静かに更けていった……