ENo.937 綾辻優衣

何度倒れただろう。
何度挫折しただろう。
彼女が、神を知りたいと願った時から、
彼女には七難八苦が襲い掛かった。
当然ともいえる。
それは自分の居た世界の全てを…
――敵に回す事に他ならないのだから…
けれど、彼女はそれでも良かった。
それは神の試練であると思ったから。
だから、
何度でも、何度でも…
倒れても起き上がり、
どんな妨害をも跳ね除け、
彼女は今、ここに在る。
その中で、
彼女は死に何度も直面した。
辛うじて生き延びてきたものの、
“私は死んだ”
そう思った事も少なくない。
だから、
今回もまた彼女は思った。
“私は死んだ”のだと。
そんな時、
彼女は決まって死を受け入れた。
それが運命だというのなら、
彼女の願いが叶う前に死んだとしても、
それもまた神の思召(おぼしめ)し。
どうして受け入れられないという事があろうかと。
そして、彼女は今も生きている。
死の淵に立たされて、
それを受けてれても――
彼女は死へと至らない。
彼女が生にしがみつく事が出来る理由はなんなのだろう？
それもまた――
神の御業なのかもしれない。

(――骨が折れている。
何本折れたのでしょうか…
全身は痛むし体は動かない…)
気がつけば、
彼女は仰向けになって空を見ていた。
身体を動かそうとするけれども動かない。
こんな所を襲われては、
きっと――
ため息が漏れる。
(…無様ですね。
こんな事では神に近づく事は出来ない。
――なんという未熟でしょうか…)
取れる方法はただ一つ。
身体を休め、
気を練る事。
気の力を練る事さえできれば、
痛んだ身体を動かすに不足はない。
彼女はその術を知っているのだから。
最も――
それを出来るようになったのもつい最近の事であるが故に、
まだまだ熟練しなれければ
十全の結果はもたらす事は出来ないだろうが…
それでも、
彼女にとっては十分だった。
前を進むのに過度の力など必要ないのだから。
無論、
闘いを切りぬけるには難しいだろうが…
彼女には切りぬける術がない訳ではない。
――彼女は信徒にして拳士にして、
彼女は――

…
いかほどの時間が流れただろうか。
長いような、短いような時。
恐らくは数時間ほどの事だろう。
彼女は立ち上がって回りを見渡す。
そんな時に視界に入ったもの。
それは――
疲れた顔をした逃げる少年。
一体なぜ、
どうして彼はここにいたのか、
それは分からない。
けれど…
彼女は感じた。
その平凡さこそがこの世界では異質で在る事を。
だから、
彼女は迷わず彼の前へと姿を現した。
「さぁ、戦いましょう――！」
嬉々とした笑顔を浮かべ拳を構える。
その様子をみて慌てて少年は逃げ出した。
――嗜虐心(しぎゃくしん)とはこういう事をいうのだろうか？
逃げられると追いかけたくなる。
ますます戦いたくなる。
だから彼女は――
“呪術”を使う。
「背徳…
　人を喰らう鬼、
　悪魔を呼び出だします。
　――神よ、見てください、
　願わくば私に裁きを――」
それは死者の眠りを妨げる邪法。
悪魔を呼び出す邪法。
神の徒であるなれば、
其れを使う事は許されないもの。
そう。
彼女は信徒にして拳士にして、
邪法使いでもある。
その声において呼び出されるは、
人を喰らう魔。
逃げ道を塞ぐようにして現れた、
腐肉の鬼は少年の前に立ちはだかる。
「あわー」
逃げ惑う彼に、
鬼と拳で襲いかかる。
逃げ惑う相手。
弱そうに見える相手。
だが――
ここにいる以上、彼は弱い相手ではない。
逃げ惑いながら苦肉の策で放たれた一撃は重く、
その逃げ惑う事による動きが狙いを定めさせない。
どんな攻撃をも避けてしまう。
――逃げるが故に編み出された秘技――
というのが正しいかもしれない。
そして、
もう一つ恐るべき点。
恐らくは逃げる事によって体力がついている為だろう。
殴っても、
殴っても――
彼を追い詰めるには至らない。
思ったよりも長い勝負。
永久にも続くと思われた勝負だが――
終わりは必ずやってくる。
「もう帰りたい…」
帰りたいだけという意志でここまで闘える彼。
それは――
彼女にとっては好ましく思えた。
その一心でここまで上り詰めた。
そんな人物など――
始めてであったし、
そこまで昇華する精神力に彼女は称賛した。
だから、
彼女は決して手を抜かない。
何度も何度も拳を振り抜く。
そして――
「すいませんでした…」
ついには彼を沈める事に成功する。
それにしても、
何故彼は謝ったのだろう？
本来ならば謝るべきは私だというのに。
考えてみても分からない。
けれど――
彼女は感謝の言葉と神への祈りを捧げた後、
グールを地に返し、
踵(きびす)を返して次へと向かう。
「…申し訳ありません。
　けれど、貴方と闘えてよかった。
　…神のご加護が在らん事を――」
振り返る事なく――

＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊

彼女は逃げていた。
ずっと逃げていた。
追いかける者達から。
捕まってしまっては、
己のやりたい事が出来なくなるから。
撃退してもよかったのだろう。
けれど、
彼女が逃げ続ける事を選択した理由も他ではない。
彼女は考えたからだ。
恐らく、
その考えは相手には理解されないだろう。
だから、
彼女はいい訳をしなかった。
その理由は――
単純にして明快。
彼等が神を信じているから。
形、信じる神は違ったとしても、
神を信じる一点において、
自分と彼等は同じであり同志であるのだから。
だからこそ、
彼女は逃げに徹した。
やむを得なく闘う事があっても、
命を取る事は極力避けた。
時には捕まる事もあった。
捕まった時には様々な仕打ちを受け、
危うく死ぬ所だった事もある。
それでも生き延び、
抜け出す事ができたのは、
神の導きだと彼女は信じていた。
確かにそうなのかもしれない。
けれど――
きっとそれは彼女自身の精神力と行動力故だろう。
安穏の地は無かった。
けれど、
彼女はそれを欲しなかった。
もし、
安穏があるとすれば、
神に召されるその時に他ならない。
彼女はそう信じていたから…
そして、
未だその時は訪れていない――

＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊

身体の調子を確認する。
先に進むか、
留まるか。
未だ結論は出ないけれど、
早く決めなければいけない。
もし、先に進むなら、
身体の調子は最優先事項。
確認するのも当然だろう。
その結果でた結論は…
(――悪くはない。
身体はぼろぼろだけど…
闘うにしろキチンと時間をおけば、
問題ない…)
というのもだった。
つまり、
先に進むのに支障はない。
ならば――
「歩を少し先に――」
されど、
苦難は訪れる。
今は一刻でも体を休めたい時だというのに、
彼女の前に現れたのは…
巨大な竈馬(カマドウマ)。
敵意がむき出しであり、
逃げる事も敵わない。
だが、しかし――
(神よ、
苦難を与えてくださりありがとうございます。
これほどまでに大きな竈馬――
神の御業に等しき存在。
なれば…
討ち倒して貴方にまた一歩、
近づかせていただきます――)
彼女に逃げるつもりはなく、
それを喜んだ。
休まねばならないと分かっていても、
神が与えてくれた苦難だというのなら――
それだけで喜ぶべき事なのだから。
かといって、
己の肉体だけで闘うには厳しい状況。
故に、
彼女が取った手段は単純明快。
先ほどと同じく、
呪術をもって相手を制す。
「…私は浅ましいですね…」
そして、一人では足りないから、
先ほども呼び出したグールを呼び出し、
数と合わせて敵を制する。
「なんて、罪深い。
　…けれど、これもまた、御心のままに…
　私は私の全てをもって相対する。
　それもまた礼儀なのだから――
　ごめんなさい。」
されど、敵も恐るべきもの。
その巨大な体躯、
桁外れの腕力で彼女抱きしめ、
粉砕せんと押しつぶす。
そんな敵に抱きしめられたまま、
彼女は零距離の一撃を繰り出す。
己のもてる全てを一撃に込めて。
そして、
崩れ落ちたのは巨大な竈馬。
彼女は満身創痍で今に倒れそうではあったけれど、
静かに佇み十字を切る。
竈馬の死を悼むかのように――