ENo.674 ダーシャ・ヴェル

　

―――生きなさい。ダーシャ。

果たして、その言葉通りにダーシャは生きた。
忌み子として産まれながら、隠されて育ちながら、罪を犯しても、与えられたものを守るために、他者の命を奪いながら生きた。
そうして、やがて一所に帰る安寧を得、それまで以上に強い意志を以って、生きようとしてきた。
少なくとも、ドーラ・シーラに出会うまでは。

ドーラ・シーラに出会ったダーシャは惑っていた。
自身は一度死んだのだ。死んだ身なれば、生きようとすることもない。そうなることを、本当はずっと望んでいたのだから。
心残りはただ、妻と。子どもと――

だけれども。
そも、ダーシャがあの閉じた島で目覚めたのはいつのことだったのか。
記憶をたどる。今でも思い返せば鮮明に蘇る、どの悪夢よりも惨たらしいあの記憶。

―――むき出しの顔を覆われて瞼が焼け、眼球にまで侵食したそれが視界を奪う。
そのかびた様な酸っぱいような泥臭さ。それが激しい痛みを伴って鼻孔を這い上がり、やがて自身の肉の溶けるにおいらしきものを最後に感じた記憶が曖昧に残っている。
唇もまたいとも簡単に侵食され、食いしばった歯の合間からじわりじわりとそれが這い入る。人間の体温に近いそれは、自身の味を伝えるより早くにダーシャの舌を殺してしまった。

指は。剣を握っていたはずの指はいつの間にか感覚を失って――もしもダーシャが自身の視覚を奪われていなかったらば、黄色い半透明の塊のなかに、ゆったりと浮いている自身の剣を見ただろう。

すべての感覚を失いながら、自身が死にゆく刻一刻の記憶だけを重ねて行った。あの永遠とも一瞬ともつかぬ悪夢の時。

その記憶と、目覚めてからの記憶の間は―――空白だった。
どの位の時間が経ってしまったのか、ダーシャには到底検討もつかない。自分が生きているか死んでいるかすら、まともに判断がつかなかったのだから。
ゆえに思う。

―――その空白の期間の間に、彼らが新しい生き方を得ていたとしたら？

ダーシャの眉間のしわが深くなる。
――自分がふたりのもとへ帰ったとて、果たして彼女に、それは喜ぶべき事なのだろうか？
自分と同じように、人を殺めることでしか生きる道を切り開けなかった彼女。そしてまだ何も知らない、ふたりの子ども。

彼女に寄りそうべきなのは、自分のような人間ではなく――もっとまっとうな、彼女を正してやれるような人間であるべきではないか？

だとしたら、自分が生きて戻る意味などないのではないか。
ここで再び死んでしまえば――その方が。
そうだ。真に安らぎを得られるのは死ぬときだけだと、ずっと信じて生きてきたのだから。

けれど自ら命を絶つ事だけは、どうしてもダーシャにはできなかった。
だから真に乞うたのだ。それが、ダーシャの最大の過ちだったのかもしれない。

――もう一度俺を殺してくれ。

ダーシャの言葉に、ドーラ・シーラは応えなかった。　