ENo.2262 アス

目を凝らせども先の見えぬ陸路。
新たな“メンバー”との合流。
襲撃者による急襲。及び、それに当たっての疲弊。

長い散策を経たものの、やはり一度体制を立て直す必要はあった。
幾日を経て尚も街は‥変わる筈もなく喧騒でも静寂でもない混沌に浸かっていた。
‥それでも無論、街の外と比べれば最低限の秩序が維持されてはいるのだが。
腐っても街、か。

長い息を、ひとつ。
白濁したそれは、此処最近思い出したように寄せてきた寒さ故か。
そうでなくとも濁っていたのか――

腐っても街。
故にそこには多くの者が身を置いている。
その者の数が‥故、なのだろうか。
空気‥というよりは雰囲気の濁りは、改めて踏み込むと外部とそう大差ないものだと気づかされる。
胸の中まで黒濁しそうな気分だ。
まだ、あの連中と共にいるうちはいい。
然しどうやら一度離れるとこの街の環境は‥一頭で立つには、辛い。
――カガチさんとの縁がなかったら、俺は単身でこの地この街この世界に居続けただろうか。
考えるまでもない。
彼が隣に居なかったら、より安全であるからと信は置けそうであっても他人と連む選択肢などとらなかった。
此処に来て一週間が経った。

生死についてはわからない。この身体はなんだかんだで血の流れるものだ。
人を襲うことはあっても襲い切れたかどうかは完全に予測がつかない。
此処の者は皆最低限以上の武術をそれぞれ持っている。
返り討ちに遭って命を落としていてもなんの不思議もないだろう。

けれどそれ以上に殆ど確信として、もう今頃は俺は消え失せているだろうな、というのは感じる。
‥今の状態の、不安定さも多分に勘定にいれつつではあったが。

破綻の先延ばし。

「アスさん！」

‥そんなもやもやを横に押し遣る声。
思えば最近、名前を呼ばれる機会は増えたな。
この声は確か――

呼ばれるからには由あるものだろうと踵を返してみれば、白衣を乱しながら駆けてくる彼の姿が見えた。
‥余韻に浸っていたわけではないのだが、直ぐに竜体に戻って空を望まなくてよかったようだ。
どうした、と問う必要はなく。
その手には――先刻俺が使い、そのまま俺が忘れてきたのだと思われるものが握られていた。
葉巻の銜え口を切り落とすナイフ。
駆け寄ってきた彼から受けたそれは――余程握り締めてきたのだろう――ほんのりとあたたかかった。

――そういえばこのナイフはどうしたものだったろうか。
奪ったではないと思うのだが‥貰った覚えもない。
誂えと刀身を見るに、短刀ながらも相当のものだし買えるほどに懐が豊かでもなかったはずだが――‥

思索は‥擦過音のような、彼の呼吸に遮られた。

礼を述べて、気になさらずと返され。
次からは気をつけると述べて、別れの挨拶を交わして。
彼が今度は此方に駆けてきたときとは違いゆっくりと、けれど少し軸をぶらせながら歩み去り始める迄。

耳に障り、気に懸かる音を聴いていた。
――少しだけ聞き覚えのあるそれに。
口を開いて、尋ねるなり注意を促すなり。

声を絞るべく飲み込んだ空気は、激しく吹いた砂塵に取って代わられた。
視界もすこぶる悪く、それでいて長大な風。
激しく口を覆いながらたっぷりと噎せて――漸う咳と風が収まったときにはもう、彼の姿は視界の中にはなかった。

「‥‥‥」

――なんだかやたら耳に残っている。
ざらついた口腔ないの砂を吐き棄てながらも思う。
‥あまり医学には詳しくないけれど‥よもや、肺腑を病んでいるのだろうか？
だとするとただ事ではないけれども――
‥環境の激変による疲労あたりであるといいなとは思いながらも。
俺は見えなくなった彼を探そうとはせず、ひとまず街を後にすることにした。

苛むような口調だったならばどんなに良かったろうか。
誹るようなものだったなら、詰るようなものだったなら。

言葉はただ、静かだった。
いつかは激しくぶつけられるだろうとは思っていた事は‥普段の彼より少し遠い、厳かでさえある様子で尋ねられた。
――きつく詰め寄られると思っていた。故にその覚悟もしていた積もりだった。
けれど、‥寧ろだからこそ、肩透かすばかりのその物言いと佇まいは‥柔らかいが故に、身に染みる。

他の者ならばともかくとして。
彼が直接ぶつけるほどに疑惑を深め、ほかならぬ俺から話される事を望んでいる。
‥となれば現況を口に出す以外の選択肢等、初めからあってないようなものだ。
自身の身体と精神ではあるものの、無論把握しきれている話でもないけれど――

「‥カガチさん」
「ん？」
「先だって述べておくと‥恐らく、カガチさんも薄々感じておられるとは思うけれど。‥俺は緩――いや、急激に”アス”を失いつつあります」

視線と沈黙で促され、言葉に迷いながらも続ける。
――何処を掻い摘めばいいか判断つかなくて結局、長い話になった。

隊としての最終戦のあとで間もなく、じわじわと体調を崩し始めたことから。
他人の名前を頭に留め置けなくなったこと、その原因は紆余曲折しつつも俺が俺の名前を知らぬことに端を発していたこと。
それは例外なくカガチさんにもそうであって、顔を合わせるまで失念していたこと。
解決法は唯一、父親に切り取られていない”真名”を探すしかなかったこと。
拾えぬ侭‥現況が続けば、毒効が強まるのはもちろん、自我や認識がどうなってくるかわからないこと。

既に、自分でない者が名を呼ばれているのを見ると胸が軋んだり嫉妬するようになっていること。

「‥‥‥」
「‥‥ふむ‥」

一通り話して。
細く長い息を落とした。

――カガチさんが今の話を聞いてどう思ったかは、俺にはわからない。
けれど。
顧みれば顧みるほどに益々、とは思う。
元いた世界でも望み薄だった”真名の入手”。
数多、得体の知れぬ存在多き世界ではある、けれど――
それ以上に、かつてよりおかしくなりつつあるのを自認してしまえている気もする。
鑑みると――

「――カガチさん、いよいよ俺が‥貴方の知るアスが、消え失せそうになったときは――」

言葉は、最後まで紡ぐこと叶わなかった。

言途切れて地を這い、彼を平時より遥かに盛大に見上げているのに気がついて漸う。
俺は彼の拳に殴り飛ばされたのだと思い至った。

――鋭い一撃だったのだろう。遅れてじくじくと痛みがやってくる――

流石に気に障ったか。
‥打たれた頬を腕でさすりながら、立ち上がろうとしたら――今度はそれも、阻まれた。

ぐしゃぐしゃっと、頭をかき回される。

「まァ、要は気の持ちようだろ？」

四の瞳は、力強かった。
‥それだけで、此の儘棄て置かぬとすら言われている気がした。

「何、いい方向に考えればどうとでもなるもんだぜ？」

いい方向。
それが今、どんな風に考えればいいのかはわからないけれど。

今はまだ――それも彼に幕を引かせる形で潰えるわけにはいかない、と思った。