ENo.1986 パークス・P21・3Q77X94

明日のぼくへ：

改めて言うまでもないことだけれど、なにか新しい技芸を身につけようと思ったのなら、そのとき必要なものは練習だ。あるいは鍛錬。そんなものなしでもいきなりできてしまうような天賦の才をぼくがその分野について持っているのなら話は別だけれどね。きみがよく知るように、残念ながらぼくたちの才覚はそこまで万能にはできていない。そりゃ人並みに苦手はあり得意もあるけれど（幸いにして料理はぼくたちにとって得意分野に当たるものだったみたいだ。でもそれだって毎日練習しないことにはうまくなんてなりっこない）、いかに得意なものと言ったって、いきなり万端整ってございますっていう具合にはいかない。どんなものであれ今日のぼくから明日のきみへ向けてバトンを渡すという行為なしには、あるひとつの技芸を高めていくことはできやしないわけだ。

つまりこのときぼくには祈りが必要になる。いつにも増して。明日のきみが同一性を保ったままでぼくの積み重ねた技芸の石に、ぼくの続きから、またもうひとつ石を積んでくれるようにと願う祈りがね。ぼくらのように特異な病に侵された場合を除いたって、それはきっとあらゆる種類の練習や仕事や、言ってしまえばダイエットにだってついて回るものだ。明日のきみに向けてぼくが正しくなにかを渡したり伝えたりできることは驚くほど少ない。実のところ明日のきみを取り巻くさまざまの状況を、ついに予想というあのあてにならない未来の輪郭を通してしか思い描き得ないぼくたちの力では、どうしたところで正しい予定も正しい努力も困難を体験せずにはいられない。

べつだんものすごく大袈裟なことをやろうとしているわけではないんだ。それでも料理よりは果てしないことかも知れない。ぼくは楽器を始めようと思っている。音楽の勉強ね。と言ってもそんなに大仰なものじゃなくて、爪も切りたくないし、笛なんてどうかしらと今は思っています。セルフォリーフの笛にどんなものがあるのか、どれくらいの価格なのかはちょっと確認していないけれど、次の街に行けたらいくつか見つくろってみたいな。とりあえず当面は草笛と紙笛で練習しよう。耳によさには自信のあるぼくたちだもの、ドレミファくらいなら紙笛で出せるんじゃないか知ら。あまり音の幅を広く取ろうとしたらいくつもきっと笛を用意しないといけないだろうけどね。ピアノはむかし少女時代に少しだけやった。なつかしいね。まだ指が回るなんて思っちゃいないけど、おかげさまで五線譜は読めるしドレミもわかる。セルフォリーフの楽譜が十二音階を前提したものだっていう保証はないけれど、そんなに分割世界ごとに大きく違うとも思えないんだよね。最悪のときは耳コピだ。それはそれできっと楽しい。

音楽の膨大な要素のをどうにか二次元平面で表そうとしたのが楽譜というもので、その楽譜はどうしたところで音楽のなにがしかの要素を捨象しなくては楽譜の形に結実できない。もともと無理のあるデフォルメなんだよね。ぼくたちに親しい五線譜に取り残された音楽の要素はそれではなにかというと、音の高さと音の間だ。まあ例外的に言葉で音質のイメージが伝えられることはあるけれど、五線譜上の記号が織り成す高度に抽象化された記述の様式にくらべると、ちょっとアバウトにすぎる感じもあるよね。もちろんのこと、高さと間だけで音楽が出来上がるなんていうのはどだい無理のある話で、尺八の楽譜なんかは間は記さずに、音質を主軸に据えて抽象化している。尺八にとってはそちらの方が音の生命に密着していたわけだ。音の要素のうちでどれを楽器の本懐と見なすかっていうのは文化論の問題で、厳密にこれだって落ち着く解はきっとない。だからこそセルフォリーフの楽譜の書式は一体どうなっているのやら、興味深いし、怖くもあるね。ぼくたちが一路向かっているオルゼの街は石造りの芸術の都ということだけれど、建築芸術ばかりでなくて、やっぱり音楽にも見るものがあるんだろうか？　あまり観光気分でばかりいるのもよくないけれど、興味深いお話。

エスタの街はいいところだったんだけれど、音楽に関する本は見かけなかったな。ちょっと残念だけど、それぞれの街にそれぞれの得意分野があるということなんだろう。教本なしで勉強を始めるというのもちょっと心配なことではあるけれど、音に体を慣らしておくのは悪くないよね。特に深い目的意識のあるわけではなくて、モチベーションはつまりグレンダがやってる音楽がちょっと羨ましくなっちゃったっていう、それくらいの話なんだけどさ。そのうち彼女と一緒になにか演奏ができたら楽しいだろうな。クカックは楽器ができるんだろうか？　あのたくさんの武器を縦横無尽使ってるさまを見ていると、ちょっとそういう分野の勉強をやっている余裕って、なさそうにも思えるけどね。でも人は見かけによらないとも言うから。

人間の学習って、寝る前に済ませておいたことが、寝ている間に頭の中で整理されて、明日にはより血肉になっているものだって言うよね。そしたら明日のきみの血肉のなかに今日のぼくからの手紙は、より実態的な形で生きているわけだ。それを想像すると少し嬉しくなるよ。ぼくらに記憶は燃え尽きがちだけれど、体に染みつきさえすればそう消えない。それに、このセルフォリーフの空気はぼくらに相性がいいのだろうか、来てからもう一週間、まるでなにかの燃え尽きたような気がしない。あるいはものすごく致命的に、燃えたということさえ忘れた燃え尽きが起こっているのかもしれないけどね。それだとしたらもっと日常生活困りそうな気もするし、きっと杞憂なのでしょう。さすがは躍動の世界、少しは健康にいいのかな。このままなにも燃え尽きることなく、この世界の配達を終えられるといいのだけれど。祈りながら、それじゃ、おやすみ。

ポルセンス伝書暦924年、鐘月の3日
Pax P21-3Q77X9