ENo.1775 ジル・フェン・イクス

普段静けさに包まれたフリストの街の一部が騒がしくなった。
そこから逃げるように二人の人影が平地へと駆けこむ。ジルとネフィルだ。
岩陰に息を切らせて隠れると、後方を見て追手がいないかどうか確認した。
どうやら街の外までは追ってはこないらしい、外の世界の敵のほうがよほど怖いらしい。
一息ついた所で責めるような目でジルはネフィルを見る。
この自体を引き起こしたネフィルはどんよりと落ち込み、俯いたまま息を殺していた。

「…で、君はあの街の元締めに何の用だったのかな？自殺志願かね、えぇ？」

ここまでに至った経緯をジルが知るかぎりでは、ネフィルがフリストの街の質の悪い連中相手に
何かしたということだ。それも連中をまとめ上げている元締めに対して。
街に入ってからはしばらく別行動だった。特にネフィルは何か奮起していたように見えていたので放っておいた。
ベタベタと絡まれるよりかよっぽどましだった。
しばらくしてから姿を表さないので心配になったマリアに言われて探せば、
相手のアジトのど真ん中で見事なほどに痛めつけられていた。
数が多く、この街を占めている相手がいる事がネフィル救出を渋らせたが、
マリアの喚き声と自分の所有物に手を出されたという行為が強行突入と突破をさせた。
折角の長旅の疲れを癒せると考えていたのにこんな出来事があったのでは、逃げ出すほかない。

「………すまなかった。十分に休息できなかったのは僕のせいだ…
　ジルは休んでいてくれ、僕が見張りをするから…自殺なんかしない、ちゃんと見張っているよ。」

俯いたままのネフィルに更にジルは叱責する。

「そんな謝罪の言葉よりも君があの街で何をしようとしていたのかを私は聞いているのだ。
答えられないことをしていたのかね？あの危険な相手と何かしらの取引とか…」

続けようとした矢先に割って入るマリアの涙声。

「ちょっと待ってよ！ジル！ネフィルを責めないで！私が悪いの！私が余計なことを、お節介を言っちゃったからネフィルが…！」
「マリア、違う…僕が勝手にやった事だ……」

どう言えばいいのか解らない感じで視線が定まらない様子でネフィルはつぶやく。
こんな調子でお互いをかばい合っているのは美談だが原因究明には全く邪魔だ。

「だって、ネフィル。ジルのために何かしようと思ってたからあんな危ない相手のところに行ったんでしょ？
それって私が偉そうな説教しちゃって…それで…ごめんなさい！ネフィル！」
「マリア…違うんだよ、僕が勝手にああしようと思って失敗したってだけで………
　…そうだ、ジル……あいつ等、東の方を気にしている様だった…下っ端に偵察させるとか言って…」

ぐずぐずとみっともない声のマリア。何かをうわ言のように必死につぶやくネフィル。
延々とこの調子で二人とも居られると面倒だ。
マリアはともかくネフィルはよほどジルを怒らせたのがショックなのか、心身喪失状態だ。
これじゃまともに話せそうにない。今は落ち着かせるほうが先決だと判断した。

「やれやれ、埒があかないな。」

肩をすくめて、ネフィルになるべく優しく話しかける。

「…とりあえずここで休み給え、私より君のほうが状態として悪い。」

手早く火を起こしてからその場を整えるとネフィルに楽にさせるよう声をかけた。

「落ち着いたら、話してくれるね？私を愛しているのなら。」

無論原因究明のための懐柔だったが効果は覿面でったようだ。
ネフィルはびっくりした様子でこちらを見るがすぐに顔をそらして

「…っジルにも休憩してほしい…」

そう小さく言ったが、ジルの耳には届かなかった。

「…？何か？」

聞き返しはしたものの反応が無いので無視する。

「ジル、お願いすぐにネフィルの手当てしてあげてよ…。」

やっと落ち着いたのかマリアが鼻声でそう頼み込んだ。
このままここで襲われたら傷ついたネフィルから狙われるし、不利な状況は望ましくない。
手荷物からお世辞にもよさそうには見えない医薬品をとって治療することにした。

「やれやれ、手のかかる子だ。よく見えるようにこっちに腕を出し給え。
…薬がしみると思うが我慢してくれ。」
「っ……あ、りがとう……すまない、迷惑をかけて…」

治療される腕を見てネフィルはほっとしたのかため息をつく。

「ほら次だ、背中の翼も…あぁこれはひどい。随分と傷めつけられたようだね。
弱いと分かっている相手をとことん嬲る屑で下劣なやり方だ、いやはや感心するね。」

この世で人間ほど残酷な生き物はいない。しばしば自分たち悪魔が恐れられるが
同時に悪魔たちは人間を自分たちを凌駕し殺すものとして恐れているのだ。
愚痴をこぼしつつすべての箇所の治療し終わってから所見を述べる。

「君の生体組織が人間と同じだと仮定しての応急処置だ。何か異変があれば知らせてくれ。
それからしばらく翼は動かすな。
…緊急時には魔法で活性化させて一時的に回復させるが出来れば避けたい方法だ。完治が遅くなる。」

分霊状態の自分が持てる知識と技術でできることはこのあたりだ。
血のこびりついた布などを手早く片付けネフィルが話しだすのを待つ。

「………ありがとう…。ジル…僕が、元締めと…君に言えないような事をしてたとは思ってないのかい？」

まだ怒られるとでも思っているのかびくびくと怯えたような目を向けるから、少しばかり愉快だった。

「まぁ…先ほどのマリアとのやり取りで何をやろうとしていたかは大体わかったが…」

その言葉にマリアがうっと息を飲んだ気がしたが、気にした様子もなくジルは続ける。
大方何かしら頼みごとを元締め相手にしようとしていたのだろう。途方もなく馬鹿馬鹿しいか、
あるいはジルのために、東に何かある、という様子から外に出る方法でも聞き出そうとしていたのだろう。

「言いたくなければ聞きはしまいよ。ただ、金輪際一人で何かしようとは思わないでくれ。
　ここがどういう所だか君も十分今回の件で分かっただろうしな。」

こういう態度がたぶん、ネフィルを懐柔するには望ましいからその選択をした。
悪魔らしい微笑で釘を刺す。

「う…今日は本当にカッコ悪い所ばかり見られてるな…はぁ…
　…次からは君に相談するよ…。」
「それがいい。年長者の言うことは聞くものだよ、ネフィルくん。」

満足そうにふふんと笑う。
このぐらい普段から大人しければ扱いやすいし、過剰なスキンシップさえなければ
側においておくことぐらいはまぁ、許してやれそうなのだが。

「さて、先程からやかましいこのリュートだが私の傍に置いておくと見張りの邪魔だ。」

ひどーいというマリアの文句が聞こえたが再び無視する。やかましいのは常日頃からだ。

「悪いが抱えて少し眠るといい。何かあれば起こすから。」

とマリアを差し出す。リュートを受け取りながらネフィルはまじまじと相手を見つめた。

「…ジルって何歳？」

くだらない、実にくだらない質問だ。

「私が幾つかなどということは、君にとって重要かね？」

年齢など些細なことだ。君だって齢１００を超えていながら大きな子供のようじゃないか。
ジルはおかしそうに笑う。ネフィルもつられたようにちょっと笑って

「君が幾つだって僕の気持ちに変わりは無いよ。
　…すまない、後で見張りを代わる。」

だから、そういう気持ちはいらないと言っているのに。また反論すれば面倒なことになりそうだし
傷に触るだろうから我慢した。とりあえず頷いて返事をし、見張りにつく。
ネフィルはおとなしくリュートを抱えて火のそばに座った。何やらマリアと小さく会話しているのが聞こえる。

視線をそこから外し、外を見やりながらジルは思い返す。
ネフィルを助ける際にこっそりとあの連中を呪っておいた。
直にその呪いが芽を出し、じわじわと組織の者共の運命を狂わせる予定になっている。
死ぬことはないだろうが、死んだほうがましだと思う程度には酷い地獄を見ることになるだろう。
ジルにとってはゴキブリ駆除か街のちょっとした清掃のつもりだ。これであの街もそこそこ小奇麗になって清々する。そう考えてジルは薄く笑う。
少しだけ残念なのは彼らが破滅する様を間近で見れないことだが、その頃にはジルの記憶から彼らがすっかり消え失せているだろう。

悪魔という生き物は自分の持ち物に手を出されたことに対して怒り狂うのだ。