ENo.80 アル・グーラ

　過ぎ去りし事柄は既に決まっている、それ以上事実が動くことはない。
　過去とはこれまでに在りし事柄を集め、静かに抱いては佇みつづける大地のようなものだろう。

　大地と共に在りしは大いなる海。大地より湧き大地の上を流れ行き、そして大海へと流れ込む大いなる大河。
　それらは大地と共に命を育み、在りしものへと豊穣を齎す。
　穏やかに静かに流れ、変わる事なきが常とも見える大いなる大河。
　だが佇み動かざる大地とは違い、大河を象るのは揺蕩う水流。瞬きの間ですらもその流れがその身の様が同じ事柄などとは限らない。

　佇み動かざる大地を過去とするなら、流れし大河は過去の記憶。
　大河は命を湛え大地と共に豊穣を与えるが、時にそれは狂う程に氾濫し傍らで共にありしものを喰らい飲み込むほどに牙をむく。
　ときにその躍動は、礎とする大地すらも削る程だ。

　記憶とは経験した事柄を留めた事柄、忘れずに覚えておいた事象、知識。
　だが記憶の持ち主が変わらず蓄えているつもりでも、それは時の流れと共に移ろい、おぼろげに翳み、消え失せ、ときには気づかぬうちに変化している時すらある。

　それは意識をしても、しなくても。
　望む望まざるとに係わらず。

　未だ来ぬ事柄はまだ定まらず。まるで掴めぬ空のようなもの。
　歩んできた道、今現在、それらが事柄によって示唆される“なにか”こそ手に入れど、気まぐれな空はその示唆や予測もあっさり裏切る様を見せてくる。
　その全容なぞ計り知れない。
　未来というものは過去から見ればまさに千差万別、覗く度に姿を変える万華鏡。

　現れた在り様という事柄はほんの一瞬の点や煌めき、まるで水雫のようなもの。未来から過去へと流れる最中に、ほんの一瞬のみ煌めく雫。
　現在という雫は次から次へと流れ落ち、不変なる事柄へと吸い込まれる。静かに大地の中へと染み込み、または大河のひとしずくとして共に流れる。

　大地に、大河におちたその雫は、大方はそれへと静かに流れこむのみだ。
　だがときに、落ちたただひとつの雫――ただ一点の邂逅と事象が波紋を引き起し、全てを大きく変えるきっかけになることもある。

　例えば、セルフォリーフの“異変”のように。

　この分割世界、セルフォリーフは“躍動の世界”と呼ばれている。古の時より動植物が良く育つ、非常に肥えた世界だからだ。
　その事柄に嘘偽りはない。今までも、そしてこれからもそうだろう。それだけこのセルフォリーフという世界には、生命という名の力が漲っている。

　だが限界を超えて漲り滾ることに、つまりは過ぎる程の生命の力は、どうやら足りないことと同じくらい――いや、それ以上に住人たちには困る事柄のようだ。
　今、ここに暮らす人々は、少し騒がしくなったこの世界に危機を感じている。
　だからこそセルフォリーフの外にまで、救援依頼を出している。

　確かに器から溢れるほど多いというものは、その行き場を探し氾濫し暴れ始めてしまうもの。
　たくさんの水雫――大雨を受けた大河や海が良い例か。受け皿から溢れれば毀れていく。
　空が機嫌を損ね、深い雲と雨を世に齎したならば、大河は海はまさに悪魔の如くうねりを上げて暴れ狂う。
　それが望月の時ならば、尚更に。
　望月が微かなヴェールを纏い、仄かに灯る光の輪を伴ったのならば、殊更に。

　欠けた月、それが日を追うごとに満ちていく。
　その金色の、否、白色の、否、血色の、否、紺碧の。
　その陽と空を映したさまざまな光加減が、月が湛える蟲惑の引力が、静かな大河と大海を揺らがせ、さざめかせるのだと人は言う。
　その月が真円を描くときに、もっとも大きく揺らがすという。
　揺らぐ海や河は真円の月に惹かれて波立ち、大きく蠢き、大地を喰らい、そして引く際にはその身に抱える欠片を置いて財を齎していく。

　だが財という観念は、悪魔の観念だと教えるものもいる。
　天空は神が治め、大地は悪魔が治めるもの。
　小さな欠片が核となり、時の流れがゆっくりと育み、堆積し変質し、結晶となった宝石や金。それらは大地がその身に静かに抱き、眠らせ、統べている。
　そういった財に拘る、それがすなわち悪なのだ、と。
　過去の事象や邂逅による記憶、そこから編纂される知識や知恵、そういった財もまた、悪魔の範疇であり観念なのだ、と。

　それらが真に悪と悪魔というのならば、訪れたこの邂逅は悪魔の邂逅とでもいうべきだろうか。

　ある日、ある時、ある場所で。
　きっかけなんて無粋なものは、ほんとうに些細なことだろう。

　救援依頼を受けて来訪した、“月”の言葉を名に抱く少年。
　その御名が抱えるかの如き、中天に在りし時の望月のような、双の眸。
　夜の帳のような衣服を纏い、物静かな面の内には荘厳な何かが垣間見せる。

　月が仄かに輝けば、深淵の闇を薄く照らす。
　一片の光もなき全き闇で覆われた大河が海が月の魔力に惹かれるよう、蠢き、揺らぎ、さざめきはじめる。
　起こる波、抱く何かが光を返して仄かに煌めく。

　欠片が、浮かび上がる。

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　ほんの一握りの砂、それが毀れ落ちる程度の時間。
　されど意義という意味では、両手で抱えても溢れて足りないほどだろうか。
　少年は私と対峙し、さざめかせ、≪記憶≫という名の“財”を見出し、掬いあげ、露わにする。
　わたしの中で輪郭すらなかったそれは、はっきりとした場面の欠片を象り、わたしにもその一端を見せた。

　彼も、目的という意義を果たせたのだろう。
　言葉数少なく、呟く言葉。
　己が確認する為、そして朧に示唆する為。
　自らが起し、そして掬いあげたヒューム――蒸気が凝集して微細な粒子となった金属たち――の如き欠片を手に、身にし、語り、呟く。

　傾げた首に続く言葉。言葉の代わりに返す頷き。
　別れの時、静かに舞台へと表れる水達。緞帳の代わりに彼らは静かに、そしてゆっくりと広がっていく。
　移ろう彼らに溶けるよう、わたしもその場を後にした。

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　彼が掬った≪記憶≫という名の赤い場面。それが何を意味するか、はっきりとはわからない。
　彼が放った言葉。それが何を指しているのか、はっきりとはわからない。

　いきもののようにこだわり、認識をしようとしなかった。
　だから“わかる”という為の、破片が私には足りていない。
　輪郭すらもおぼろげな“私”という存在は、それがはっきりとした形になる程の結晶を為してはいない。為すことはない。
　だから、わたしには、わからない。

　それで良い。
　私は今、ここで生きているのだから、今はそれで良いと思う。
　少なくとも、今は。
　今ここで、セルフォリーフでいきていくためには、あの欠片は何も意味がないものなのだから。

　無いはず、だから。

　何の気なく、手がそっと、声を紡がぬ喉へとかざされる。
　反対の手がゆっくりと、霧を伴い動いて空へとかざされる。
　空が陽炎のように揺らめくと、かざした先に現れるのは真鍮製の航海灯。
　小さいながらも精巧な造りの真鍮が内に抱えるのは、円筒型の硝子窓。硝子の中で灯る炎の代わりに浮かぶのは、血を想起させる暗紅の紅玉。

　真鍮の籠と硝子の部屋に護られた、炎の代わりに浮かぶ紅玉。
　不死鳥が宿りその輝きは炎が燃える程とも言われる深紅の石、だが星のように煌めくことも炎のように燃える程の光を返すこともなかったビジョン・ブラッド。
　ランプの中でただ深く、深暗紅のまま、静かにそこに佇む宝石。
　その石に生命の灯火が――いや、魂が籠もるかの如く、うすらぼんやりとした灯りが燈る。

　ふと喚起される、いずこかの誰かが言ったある言葉。
　この世界の御名、セルフォリーフ（Cerfolief）が包み抱く言葉は、生命の力（Life force）なのだ――と。

Link：ENo.122 Lunofume.