ENo.1775 ジル・フェン・イクス

あいも変わらずジルは不機嫌なままネフィルとマリアを振り返りもせず先を行く。
自分で歩くことがままならないマリアは結局そのままネフィルに運ばれることとあいなった。
これはこれでマリアにとってはなかなか楽しかった、今まで話し相手がジルしかいなかったので
新しい話し相手としてネフィルの存在はありがたく
元々話好きなところもあって道中ずぅっと会話に付き合ってもらった。

「へぇ、そうだったんだー大変だったね。」
「ジルが居たから、僕は楽しかったけれどね。」
「そぉ？あいつと一緒にいると楽しい？」

ジルから事前に聞いていた話とネフィルから聞いた話は起こった事実はほぼ同じでも
感じていたことはだいぶ違うようでネフィルの感覚は子供のように新鮮で聞いていると楽しかった。

「うん…喧嘩…もしちゃったけど…そういえば、喧嘩なんて初めてしたな。
　長年生きてきたけど、ジルといると色んな初体験が出来るよ。」
「ふぅん…そっかぁ…。」

とちょっと感慨深げにマリアは言う。好きな人と居られれば荒野も天国というところか。

「そういえば、ネフィルはどうしてこの世界に来ちゃったの…って、これ聞いたら嫌かしら？」

恐る恐る切り出してみる。ネフィルはあまり自分のことを話したがらない。

「うーん…天使の声が聞こえて、気がついたらここに居たんだ。
　たぶんね、ジルに会いに来たんじゃないかな。」
「え、じゃあそれまでは？何かしてたとか覚えてないの？」
「天使には会おうと思ってたんだけどね…居場所を探してた。ただフラフラしてるだけだったけど…。」

聞いてもこんな風に抽象的でふわふわした調子で自分が希薄な気がする。
だけどジルについては並々ならぬ執着心があってなんだかアンバランスだ。
逆に言えば昔辛い目にあったからこそ今がよく見えているのかも知れないが。
こんなにぼんやりした男がよくこの世界で今まで無事だったな、とこっそり思ってしまった。

「ふ、ふぅーん…ねぇネフィルって実は天然？」
「え、どうして？」

きょとんとしたように声を上げるネフィル。
いやだから、そういうところがさーと思いながら続ける。

「だって普通天使の声が聞こえたからふらふらしてここまで来ちゃった！
　なんてことはあり得ないもん。ここは否定されちゃった奴らが来る場所だから
　なにか心当たりがあってもよさそうなのに…単なる迷子で来ちゃうっていうのは抜けてるわよねぇ。」
「そうかなぁ…この世界の事はよく解らないんだけど…。
　否定された事はあるけど、それが原因なのかな？どういう仕組みなのか知ってるかい？」

あぁ、否定された原因に心当たりはあるんだ。
でもそれ教えてくれないのね。ジルになら話しちゃうのかな？
と心のなかで残念に思いながらこたえる。やっぱりネフィルとの距離はまだ遠い。

「うーん…あたしもあんまり仕組みについてはよくわかんない…ごめん。
　ジルが言うには世界っていうのは分割されててそのいっぱいある世界のならず者たちを
閉じ込めておくのがこの世界らしいんだけど。
でもネフィルが否定されちゃったっていうのは意外だなぁ、良い人っぽそうなのに。」

いや、謝る事はないよ、と柔らかくネフィルは言う。

「…牢獄の世界、ね…確かに環境は悪いけど、僕はこっちのが良いな。ジルが居るし。」

心の底からそう思っているということがありありと分かるようにそう言ってからポツリと漏らす。

「…良い人なんかじゃないよ。僕は自分の都合でしか動けないんだ。」
「まぁ確かにこの間のジルとのやり取り見てるとちょっとずれてるかなぁとは思ったけど。」

ただそれは人との付き合いが今まで全くなかったからという、経験不足によるところもあるとマリアは思っている。
特にネフィルはジルが言うところの親に愛されていない人生だったのだ。
生まれてすぐに認識する存在に無償の愛も与えてもらえない生き方。
確かにあまり振り返りたくない過去だと思う、
親という存在が子供にとってどれほど強大で重要なものかマリアは判っているつもりではあった。

「…ネフィルはジルを愛してるんだよね？それってあいつを幸せにしたいってこと？」
「ジルが幸せなら、その方が嬉しいけど…違うな、僕が幸せになりたいんだ。」

ジルが分析したネフィルの欲求の根源はあながち間違ってないのかも知れない。
でもネフィル自身が呟いたあの言葉もまた本当の気持だ。
うーんと小さく悩む。

「そういう心づもりだと、あいつがキミを愛することは難しいと思うんだよなぁ…。
　その、あたしも恋愛のこと多く判ってるわけじゃないけど、人に恋するっていうのと愛するっていうのはちょっと違うのよ。
　恋をするのは下心があってもいいけど、愛するっていうのはみかえりを求めないことだから。」

愛情にもいろいろな種類があると思うが、共通点は皆相手のことを想って何かをすることだ。
例えば、親が子に対する愛情の類も見返りを求めない。
ただ血がつながっている、それだけで愛すことができるもの。ネフィルにはそれが与えられなかった。
愛されることを知らない人間が相手を愛することは難しい。

「あ。でもでも！そのネフィルが幸せになりたいって気持ちもわかるよ！それがいけないってわけじゃないんだけど！」

だけど愛されなかったとしても愛されたいと思うのは当然だし、幸せになれる権利が失われたわけじゃない。
むしろ幸せになりたいと願って行動しているのなら、それを応援すべきだ。
間違っているやり方なら一緒に答えを探してあげたい。そうマリアは思っていた。

「ふぅん？じゃあ、僕の感情は恋心ってやつなのかな？」

興味深そうにネフィルは話に耳を傾けていたのでマリアは少しほっとした。
自分の言っていることに自信はあまりないし、もしかしたらあまりにお説教が過ぎて
ネフィルに疎まれるんじゃないだろうかともちょっぴり思っていたから。

「たぶん…恋だとおもうんだけど…。それは一方的な思いだから
　必ず成就するって保証もなくて見返りがないと辛いのよね。それを自分の中で押しとどめるのも難しいし…。」

相手が自分を好きになってくれなければ恋の欲求は永遠に埋まらない。
昔を思い出してマリアは自分も苦い気持ちになる。

「ジルは悪魔だしあんなやつだからそもそもキミを愛するって発想がないのかもしれない。
　あいつの中の基準って役に立つか立たないかみたいなとこがあるし…。」
「それは難しいなぁ…マリアは、僕がジルに愛されるにはどうしたら良いと思う？」
「うぇええ？！…かなり難易度高いと思うよ…？ていうかそれが分かれば私も苦労しないと言うか…うううう〜ん」

そもそもジルの中に心や感情があるのだろうか。無いものを相手のなかに沸かせるのはそれこそ
神様でもなければ難しいんじゃないだろうか。

「この世界の出口が見つかるまでに…で良いんだ。時間が足りない様なら稼ぐし。」

ネフィルはこともなげに言う。さり気なく策略家だ。

「稼ぐの？！あいつたぶんそれは嫌なんじゃないかしら、
　今も躍起になっているのはここからさっさとおさらばすることを考えているからだと思うし。」

事実今もこの世界から脱出することに関してだけは前向きで意欲的だ。
ネフィルと行動しているのも結局はそのためであって、その価値が無くなってしまえば
ジルはとっとと別れることを選ぶだろう。ますます難しい問題だ。
現実的に出来る事から助言することにした。

「えっとね、愛されるって段階になるにはまず好かれないと無理かなーっておもうのよ。
　あいつが好きになるのってきっとあいつの思うとおりにことが運ぶことだと思うんだけど…
　私としてはそれは癪にさわるなぁっていうか…ネフィルにとっては可哀想だと思うから嫌かなぁ。」

最後が自分の意見になってしまったが。

「ジルの思う通りにって、この世界から出るって事かい？」
「そーねぇ、っていうか私もここはもう飽き飽きしちゃったから出来れば出たいけど
　ジルは出したら他の世界に迷惑掛かりそうだし、かといって出られないと一生あいつとここでっていうのも嫌だし悩ましいわぁ。」

大体悪魔の思い通りになるのなんてマリアはごめんだった。
過去にされたことを思えば碌でもないことばかりになるに決まってる。
でも自分は今は文字通り手も足も出ない状態で嫌でもジルと一蓮托生になっている。
ネフィルからしたら羨ましいかも知れない、マリアだって代われるものなら代わってやりたい。

「…マリアは良い人だなぁ。」

マリアはちょっと驚いた。ネフィルから良い人だなんて言われることは無いだろうと思っていたから。

「そーかしら？っていうかあたしもう人じゃないもん」
「良いリュート？」
「…それもちょっと微妙かなぁ。」
「ははっ。元は人間だったんだろう？なら、良い人で間違ってないんじゃないかな。」
「キミと一緒で言われるほど良い人じゃなかったわよ、あたし。」

マリアは親友の気持ちに気づかなかったから今この姿をしている。
ある意味報いを受けていると彼女は思っていた。それでいいとも思っていた。
だけどネフィルはこう返す。

「君の過去の事は知らないけれど、
　自分の望みと他人の都合を天秤に掛けられるっていうのは、良い人の条件なんじゃないかな。」

言われてちょっとどきりとしてしまった。褒められるのは悪くない、嬉しいし。
天然タラシとか残念なイケメンってこういうことかなーとか照れ隠しにあれこれ考えてしまった。

「ま、とりあえずあたしも色々考えてどうしたらジルを振り向かせられるかアイディア出してみる。
　ネフィルはとりあえずジルと仲直りしなくちゃね。」

慌てて話題を変えるように振れば

「…ありがとう。僕も、少しマリアを見習ってみようかな。」

なんて素直にお礼を言われる。

「あたしなんか真似したっていいことないわよっ。」

ちょっと恥ずかしくなったマリアは隠すようにぶっきらぼうに言い放つ。
ネフィルはにこにこ笑いながら何も言わない。

「と、とにかく追いかけなさいよ！これ以上離れちゃうとまた厄介なことになるし
　何よりもうちょっとで街らしいじゃない、あたしも新しい街早くみたい！」
「おっと、そうだったね。早く街に着いて、ゆっくり仲直りの方法でも考えるよ。」

ネフィルがややスピードをあげて歩き始めた。腕の中で揺られながらマリアは応援した。

「分かればよろしい！ガンバレーファイトー！まけるなー！」
「あはははっ」

先程よりは元気になったようにネフィルが見えたからマリアは安心していた。
それは勝手な安心で、結局昔と何一つ変われなかったマリアはこれから起こることに対して
何一つ気がついていなかった。