ENo.1741 触手生物

初めの記憶は、傍らに居た何か――後に僕が死なないように世話をする式神であった事を知る――と共に居た僕だった。
広大な土地に多くの植物と豊富な水、そしてその空間を区切る壁、
不足する物は全て式神で補われた其処は、隔離された一つの世界だった。
　
　
隔離した者の中に僕の事を不憫に思った者が居たのだろう、式神の中に僕に様々な知識を学ばせてくれる個体が居た。
その教師役の式神が居なければ、僕は獣のように生きるしか無かったのではないだろうか。
所謂一般常識から各種の学問、体の動かし方から料理や音楽までも学ぶ事が出来たのは、偏に教師役の式神を仕込んでくれた術者のお陰なのだ。
特に料理や裁縫などの家事関係を学ぶ時は楽しかった。
味覚に嗅覚、そして触覚、これらを刺激してくれるのは新鮮だったからだ。
だから、けして彼(彼女)を恨む事はない。
僕を隔離する、そして殺す事が出来ない理由が如何なる物であったとしても…
　
　
学習が一段落ついたある日、僕は自身の出生について学ぶ事が出来た。
知る前に、知らないで過ごす事も、知った後に記憶を消す事が可能だとも、自分等を恨んで構わないとも伝えてくれた。
その気遣いが嬉しかったし、此処までしてくれた人物に感謝した。
もしかしたら、僕の親だったのかもしれない。
彼等の中で、僕が個人を認識する事を、意識の繋がりを持つ事を許可されていなかったのが残念だった。
　
　
僕は忌子として生まれ、一族に災禍をもたらさない様に隔離されたのだという。
殺さなかったのは祟られなくする為、僕が言葉を発せないのは言霊で恨みを紡がれるのを防ぐ為に付与された呪い、だそうだ。
名前が無いのも同様の理由らしく、出来れば僕が自身や周りの式神に名前を付けるのもやめて欲しいらしい。
個として区別する必要も無い此処では名前など不要なので希望に沿う事にした。
当時は自身に命名不可の強制力を持った呪いが存在するのを認識しては居なかったので、その感情が僕自身の本当の気持ちだったのかを確認する術はないのだけれど…
　
　
僕はこの知識を放棄する事も彼等を恨む事もなかった。
　
　
とうとう教師役の式神から学ぶ事が無くなった。
自らで復習する事は出来ても、その正否にすら答えてくれなくなったのである。
途方に暮れると同時に、凄く悲しくなったのは忘れる事が出来ない。
その後暫くは無為に日々を過ごした…楽しかった料理も、快適に過す為にしていた裁縫や洗濯もせずに。
　
　
気が付いたらこの箱庭の中心で座って過す事が多くなっていた。
特に何かを考えていたわけではなく、ただ見て、聞いて、そして大地と空気をそして光を感じていた。
そんな中、ある日今まで見た事が無い物を見た気がした。
見慣れた筈の式神が、淡く光って見えたのである。
最初に見えた時は一瞬であり、気の所為かと思ったが、次第に式神が光を帯びて見える回数が増えてきた。
特に他にやる事が無かった僕は、式神を意識して見る、という事に没頭した。
　
　
要するに式神の魔力と術式を目で追う事に成功していたのだが、此処でそれを正確に理解する事は無かった。
それでも、自らで発見した未知の出来事には夢中になったし、徐々に知覚出来る情報量が増えて行く事は楽しかった。
特にやるべき事が無かった事がそれに拍車をかけ、力の流れや作用を理解するのに然程時間を必要とはしなかった。
そして、その頃には僕自身の体にも同じ様な力が流れている事は何となく理解していて、気持ちはその力で何か出来ないかという事に移っていく。
そうしてみてまず気が付いた事は、自身の知覚能力が以前に比べ発達している事だった。
式神を観察する際、無意識の内に力を知覚能力に割いていた事で知覚能力が活性化したのではないかと、僕は後に判断した。
視覚は勿論の事、空気や大地の振動で周りの動きを何となく把握出来るほどに、聴覚や触覚の能力が高くなっていた。
そこで、力を意識して感覚に割いていってみたのだが、初めは加減が判らず、その結果意識を失ってしまった。
情報量が増えすぎて処理し切れなくなったらしい。
だが、その時の方法で感覚を高める事が出来るのが理解出来たのは大きな進歩だった。
二度目は慎重に慎重にを重ねて力を感覚に割いて行く。
よく考えてみれば感覚が力に耐えられるかどうかだって判っていないのだ。
多分、死にそうになったら何らかの形で制止が入るだろう。
ただ、その時に五感の一つや二つを失っていないとは言い切れないのだ。
なので、本当に慎重に力を感覚に割いて行く。
　
　
遠くが見えた気がした。
日光を取り入れる為に、天井の一部は透明な物質で出来ているからだろう。
空が見えた。
ただ、空が其処にあるのは知っていても、特別に意識したことはなかった。
空は高く、遠かった。
何となく手を上に伸ばしてみた…勿論、天井にすら届く事はなかった。
　
　
感覚に力を割く行為はそれから飽きる事無く毎日続いた。
そして、天に向けて手を伸ばす事も、無意識の内に続けていた。
　
　
変化が訪れたのはそれからどれだけの日時が過ぎた頃だったかを、僕は正確には覚えていない。
それだけ没頭していたんだと思う。
天に伸ばした手が何かに触れた気がした。
手を見てみるが、特別に何かが触れているわけではない。
だが、触れている感覚はある。
ふと、水平方向に手を伸ばしてみた。
遠くで、食用に育てられている野菜が…揺れた。
勿論、そんな所まで手が届いた訳ではないのは、僕自身が自分の手を見て理解している。
でも、野菜は揺れている。
試しに実っている実に意識を向けてみると、実が不自然に揺れた。
力を加える、筋力等でない別の力。
実は耐えられなくなり、茎から切り離された。
落下するのが見える…意識を落下する実に向けると、それが大きく見え、落下するのが止まった。
　
　
僕はその実を両手でない何かで掴んでいる。
　
　
理解した時には肺から大きく空気が吐き出された…言葉を紡ぐ事が出来ていたら、大声で叫んでいたのではないだろうか。
実は粉々に砕け散っていた。
食料を無駄にしたくなかったのと、嬉しさが混ざって、粉々な野菜をそのまま貪り食った。
その日は嬉しくて、なかなか寝付けなかった。
　
　
翌日からは見えない手で何が出来るかを模索していった。
何処まで伸ばせるか、どのくらいの重さまで持つ事が出来るのか、手を使ってぶら下がる事は出来るか、手の周りの物を大きく見る事が出来たのは何故か……
数が増やせる事を知った時は歓喜した。
大地や樹木を掴んで引き寄せる事で高速に移動が出来た時は胸が高揚した…出来たタンコブは痛かったけど。
何が出来るか、様々な事に頭を使った日々は楽しかった。
　
　
此処での日々が、最後まで楽しく過ごせたのはとても幸せな事だったと思う。
　
　
その日は深夜に目が覚めた。
高くなっていた感覚機能が、今まで感じた事のない物を感じ取ったのだ。
前に式神を見て過ごした時に僕が座っていた位置に、見た事がない式神が居た。
視線を向けるとその式神は言葉を紡ぎ出した。
　
　
「これは只の自己満足だ。理解は出来ないだろうがお前の処遇を伝える」
　
　
言葉は理解出来た。
学んできた事が間違いでなかった事を、こんな形で知るとは思わなかったけれど。
場違いなのだろうけど少し嬉しかったのは、久しぶりに言葉を音で聞けたからだろうか。
　
　
「否定の世界への追放が決まった。これより術式を執り行う。否定の世界に着いたならば好きに生きるが良い。此方への干渉が出来ない以上、即座に野垂れ死んでも構わない」
　
　
僕は怒りを憶えるべきだったのだろうか。
教師役になった式神が居なければ、この言葉すら理解出来ていなかった事実に。
そして、僕が彼等に干渉出来ない場所に行ったら、そのまま速やかに死ねと言われた事に。
でも、怒りを感じる事は無かった。
ただ、外を見る事が出来るのが嬉しかったのだ、それが別の世界だとしても。
　
　
滞り無く追放の準備は進んでいるのだろう。
箱庭の中が力で溢れていくのが肉眼でも見て取れる。
そういえば、元から居た式神は何処へ行ったのだろうか。
先程から一体足りとも見る事が出来ない。
言葉を発せないながらも、別れを告げられない事が心残りと言えば心残りではあった。
　
　
　
　
　
　
　
　
気が付いたら暗い所に居た。
左右に壁が見える。
間隔がそれなりにあるこの空間は、恐らく建物同士の隙間ではなく、使われている道であるのだろう。
左右の壁には破損の激しい物とかが積み上がっていたりする。
ふと、鼻孔を据えた臭いが通過したので見下ろすと、地面には腐敗した食料の残骸が見えた。
学んだ知識の一片に、こういった場所にはネズミやゴキブリ等の動物や昆虫が居るらしい事があったのだが、周囲には見る事が出来なかった。
初めて、動物や昆虫を見る機会が訪れると思い、舞い上がっていたのだろう。
　
　
背後の人の気配に気が付かなかった。
　
　
口から溢れる物がある。
堪え切れずに吐き出した…真っ赤だった。
過去の記憶を検索する…血液と吐瀉物の混合物。
何故こんな物を僕は口から噴き出したのであろうか。
答えは見下ろした視線の先にあった。
　
　
僕の物じゃない真っ赤な何かが、胸から生えていた。
　
　
其処で背後の気配に気が付く。
息が荒い、それは僕も一緒なのだろう。
大きな声が聞こえる。
僕の背後の人間と、それよりも離れた位置にいる人間だ。
張り詰めた空気、その中で僕の背後の人間が何かを囁くと、周囲に力が満ちていく。
離れた位置に居た人間は恐らく一人。
周囲に満ちていく力、そして失われていく僕の中の力と意識。
　
　
この世界に送り出した彼等の望んだ通りに、僕はこの世界で速やかに死を向かえる――
　
　
　
　
　
　
　
　
――筈だった。