ENo.1638 リィセ

''アンジニティから出る''

そう、意気込んでみたはいいが…さて。

何処へ往けばいいのか、どうすれば出られるのか。
正直、皆目見当がつかない。

此処は、いうなれば、罪を犯した囚人達を閉じ込める監獄世界なのだから、
檻から逃げ出す方法が簡単に見つかる筈もないのは、当然といえば当然なのだが…

とはいえ、当てもなく出口を探して彷徨うのも賢明とは言い難い。
何か、道標となるもの、檻を開く鍵となるものを見出すことが先決だ。

此処に落とされた者達は、皆、世界を放逐される程の咎を背負った罪人。
堕とされたからといって、ただ朽ちるのを待つような、
聞き分けの良い奴等ばかりでもないだろう。

少なくない数の者が、此処を抜け出そうと試みたはず。
そういった連中の足跡を辿れば、何らかの手掛かりが得られるかもしれない。

小高い丘の上に立ち、獣は荒れた野の奥に目を向ける。
視線の先は、平原と砂浜の境目。混沌の街…タルタス

人の集まる場所に行けば、脱出を試みている連中が居るか、
あるいは、そんな連中の逃避行の話が残っている可能性は高いだろう。
すくなくとも、平原や砂地をただうろつくよりはましだ。

ただ、大勢の人の前に身を晒すのは…あまり気が進まない。

こんな姿で、しかも喋ることもできないとあらば、
事情を知らない他種族からは、ただの獣にしか見えないはず。
街に近づけば、害成す野獣として追い立てられないとも限らない。

しかし、あれこれと一人で思案していたところで、
とうてい答えが見つかるような問いでは無いことも確か。
わずかでも情報を得られるなら、多少危険であっても街に入る他に手はなさそうだ。

もっと身体が小さければ、野良犬の類とでも思われて気にも掛けられないのだろうが…
やれやれ。本当に、この身が恨めしいな。

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日が暮れた頃に街へと入ると、灯りの少ない裏通りに滑り込む。
なるべく、人目に付くのは避けたかった。

情報収集が目的とはいえ、喋ることができない以上、
手段は他人の会話を盗み聞きするしかない。

ならば、わざわざ姿を見せて警戒されるより、
隠れて耳を澄ましているべきだろう。

身を潜めて物陰を伝いつつ、酒の臭いのする方へと足を向ける。

故郷には、元々、酒というものは無かった。
時々訪れる隊商が、交易の品として持ち込んだものはあったが、
それは、めったに口にできない高価な品だった。

街には、人が集まり酒を酌み交わす、酒場というものがあると聞いていた。
そこは、酒を飲むばかりでなく、情報交換をするための社交場であるとも。

酒場では、親しいもの同士がお互いの近況を伝え合ったり、
あるいは、商売人が取引相手との商談を、酒を飲みながらするというのだ。

最初は、何故酒を飲む必要があるのかと疑問に思ったのだが、
実際に酒を飲んでみると、理由がよく判った。

酒が入れば、ひとの口はおのずと軽くなるのだ。

酒を呑むと、ひとは機嫌がよくなる。
気分が高揚し、饒舌になり、
普段は心の底にしまっていたことを、いとも容易く吐き出すようになる。

酒を飲めば、普段よりおおらかな気持ちで話すことができ、
酒を飲ませれば、相手から情報を引き出しやすくなるのだ。

私もどうやらその例に漏れず、酒を飲んだときはよく喋るようになるようだ。

あいつが、森で貴重な薬草を採ってきた。だの、
あいつが、野苺がたくさん生っている場所を見つけてきた。だの、
あいつの手入れした畑の収穫が、他と比べて格段によかった。だの、
そんなことを延々としゃべっていた。らしい。

らしい。というのは、喋った内容を自分では覚えていないからだ。

私は、片手の指で数えるほどしか酒を飲んだことは無いのだが、
あの、酒の味というものは、一度呑むと忘れられなくなるな。

口に含んだときの、痺れるような、纏わりつくような舌触り。
呑み下したときの、重厚な味わいと火照る様な咽の熱さ。
息を吐いたときの、鼻から抜けて広がってゆく芳醇な香気。

それらが合わさり、なんともいえない心地のよさを醸し出す。
そして、呑んでしばらくすれば、気持ちの良い浮遊感と開放感に浸ることができる。

叶うなら、毎日でも呑みたいものなのだが…

………。

本筋から逸れた。

話の弾む場であるならば、漏れ出る情報の量もそれだけ多くなるはず。
となれば、酒場の裏手あたりに潜み、聞き耳を立てておくのが
情報を集めるのに効率がいいと思ったのだ。

酒の臭いをたどってゆけば、きっと酒場とやらに着くだろう。

別に、中身が残ってる酒瓶が捨ててあったりしないかな。などと思った訳ではないのだ。断じて。

………。

……。

…。

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…。

……。

………。

酒場の勝手口の陰に腰を据える。
立ち込める酒の香りと、店から溢れる喧騒が身を包む。

世界を抜け出す手掛かりは、意外なほどすぐに見つかった。
街は、この世界を隔てる壁の一部が壊れたとの話でもちきりだったのだ。

酒場のみならず、路地の裏道や露店の傍で耳を欹てているだけで、この手の話が飛び込んできた。
最近、街を離れる人達が多かったのは、この所為だったのか。

あまりに突拍子も無い話だったので、最初は不審に思ったのだが、
あれだけの人が噂を口にし、実際に人々が動いている以上、
流言飛語の類ではなく、それなりの信憑性がある話…とは思えた。

しかし同時に、気になることもあった。
アンジニティからの脱出を試み、一旦は街を離れたものの、
探索を断念して戻ってきている連中がかなりの数居るのだ。
何名かそういった者の姿を見たが、みな一様に疲弊している様子だった。

まぁ、無理もない。此処は、そういう世界なのだ。

街中ですら治安が危ういというのに、そこを離れればなおさら、ゴロツキ・野盗共の目を引く。
加えて最近は、人を襲う凶暴な蟲や獣が多くなっているとも聞いた。

彼等は、道程そういう奴らに襲われ、命からがら逃げ帰ってきたのだ。
自らの悲運を嘆き、酒場で愚痴をこぼして憂さを晴らしている。

それでも、街に帰って来れた連中は、運のいい方だと思う。
おそらく…『帰って来られない』連中も、それなりに居たのだろうから。

私の行こうとしている道は、易しいものではないだろう。
だが…覚悟は、できている。

躊躇いや戸惑いは、右目と共に捨ててきたんだ。

気付けば、辺りは静かになっていた。
夜も更け渡り、露店も酒場も店を閉め始める。

頃合だ。このあたりで切り上げよう。

今日は、本当に幸運な一日だった。
まさか、街に着いてすぐ脱出の手掛かりが得られるとは。

それに、情報を得るために来た店の裏に、
酒が入っている戸棚が捨ててあったのを見つけたのだ。
折角の酒がこのまま捨てられるのも忍びないと思い、3本ほど頂戴した。
まだたくさん入っていたので、放置するのも勿体無いとは思ったが…
流石に、これ以上は呑めそうもない。

さて。
当面の指針は決まった。
すぐにでも出発したいところではあるが…

ずっと耳を欹てていた所為か、少々頭がぼうっとしている。
ずっと臥せっていた所為で足が痺れているのだろうか、
立ち上がろうとしても少し足取りが覚束ない。

無理をして倒れては元も子もない。
あせらず、今日はここで身体を休めるとしよう。

明日から、本気を出す。そうしよう。

抱えていた空の酒瓶をそのまま枕にして、獣は上機嫌で眠りに付いた。