ENo.1455 天色　壟

「くっ……！」

身体が重い。
転んでからどれだけの時間が経ったのか。

でも、ここで立ち止まれない。
酷く痛む左腕を押さえながら、立ち上がろうとする。

「……ロウ、もう……もう、いいの。」

声がした。母さんだ、意識が戻ったみたいだ。

「……今回も、運が悪かったのよ……注意を怠った、私が悪いの。だから、貴方は……もう、無理しないで……」

辛そうな声で、呼吸が乱れたまま、小さく呟いた。

「……馬鹿な事言うな。雨水飲んで爆発したいのか。」

「……え…………？」

右手で荷台を持つ。
左手が酷く痛むので、右手だけで荷台を持つ。

少しだけ眩暈がするが、多分大丈夫だ。まだ走れる。

「……母さんは知らないだろう。どんなに夢を抱いても、どんな事をやりたいと願っても、叶わないまま死ぬ子供の辛さ。」

「ロウ……？」

「『私』は知っているんだ。その子供が、どれだけ必死に生きたか。生きる為に、どれだけ必死だったのか。」

「……。」

「……『私』は、必死になれなかった。だから、必死に生きる事を教えてもらったんだ。だから今こそ、『僕』は必死になる。」

「ロウ……」

「だから、もう、辛い思いはさせない。こんな理不尽で、生きる意味を失わせるなんて認めない。」

「……。」

「私は、もう後悔したくない。だから戦う。それがどんなに惨めで情けない結果になろうとも、全力で戦う。」

「……ごめんなさい……弱気になっちゃった。でも、痛みも……限界かもしれない……お願い……」

「……気は病から。母さんは自分と戦って。私はまだ……戦えるから。」

「わかった……お願い……！」

右手で押しながら、また走り出す。

走り出した瞬間は辛い。
全身の痛みが酷く、何度も何度も足を止めそうになる。

でも、諦める訳にはいかない。

小さく、呻く声が時々聞こえた。
母さんも頑張っているんだから、私も頑張らないわけにはいかない。

ある程度走り出すと、身体の痛みが気にしなくなってきた。
ただただ、目の前の道を判断して荷台を押しながら走る。
他には何も考えない。考えられない。
川が氾濫し、橋が水没し、渡れない場所があっても止まることなく別の橋に向かう。

どれぐらいの時間、走ったのかはわからない。
橋が渡れる場所を探すので大回りになってしまった。

ようやく見覚えのある白い建物が見え、その入り口に着く。
真夜中だったこともあり、窓は真っ暗だった。

荷台を入り口の傍に止め、扉を叩いた。

「誰か……誰か、居ないのか……！　誰か……！！」

声が、あまり出ない。
それでも精一杯の声を出して、扉を叩き続けた。

そのうち、窓から明かりが漏れた。
誰かが起きてきたのだろうか。

扉が開く。
白衣は着ていないが、いつもこの病院で診てくれる先生に違いなかった。

先生は驚きながら、僕に何かを

「これは……一体、どうし

その瞬間に、目の前が真っ白になった。

気がつけば、天井を見ていた。

左腕に違和感があったので触ってみると、添木がしてあった。
確かに左腕が酷く痛んだけど、もしかして……骨が折れていたのか……？

そういえば、母さんはどうなったんだ？
私は……今、どこに居るんだ……？

さっきまで何も聞こえなかったが、周りの音が徐々に聞こえるようになってきた。

何か慌しい。
沢山の人が、色んな部屋を行ったり来たりしている。

私が横になっているのは、どうやら病院のソファーのようなものみたいだった。

意識ははっきりしてきたが、身体を起こすことが出来ない。
身体が動かせないというより、力が入らないような、奇妙な感じだった。

傍を通った一人が、私の事に気がついた。
その人は笑顔で何かを言うと、急いで別の部屋に行ってしまった。

その直後、さっきの先生が私の所にやってきた。

「ローランドくん、大丈夫かね？　熱は引いたかな？」

「……あ……？」

熱……？
何のことだろう……？

「いいかい、君はお母さんを荷台で運んできてくれたんだ。着ていた服をお母さんにかけて、自分は雨に打たれながらね。」

「あ……」

……そういえば、そうだった。
じゃあさっきから意識がはっきりしないのも、熱のせいだったのか……

「お母さんは無事だよ。お腹に居る子もね。少し危険な状態が続いているが、先生に任せてくれ。必ずお母さんを助けてあげるから。」

「ん……」

それ以上の声が出なかった。

先生は病室のベッドが用意出来たらベッドで休んで待っていてくれと言った後、どこかへ行ってしまった。

……やれる事は、終わったんだ。
まだ安心できるような状況では無さそうだが、私は……

そのまま眼を、閉じる……

……誰かが、泣いていた。

大雨の中、私は外で倒れていた。
そして、誰かが私に乗って……泣いていた。

生きることを、諦めようとした。
だから、こんな……

……その軽率な行為を、酷く後悔した。
私は、そんなつもりでは無かったのに……

……そうか。
だから私は、決心したんだ。
この、誰かに――――

「ロウッ！！」

急に誰かに抱きしめられる。
思いっきり左腕が当たって激痛が走る。

「いっいだ……痛い……」

「あっ、あ……ご、ごめん……！」

抱きついてきた人が少しだけ離れる。
顔を見ると、仕事に行ったはずの父さんだった。

「連絡があって、ロウとエリーゼが大変な事になってるって……だから、急いでここに来たんだけど……」

「……。」

心配になるのは、まあ理解してあげよう。
でも眠っていて、しかも左腕に添木してる奴に抱きつくのはどうかと思った。

「……ロウ……さっき、先生に聞いたよ。母さんの為に……本当にありがとう。」

「……でも……まだ、助かったわけじゃ……」

「確かに、まだ油断できない状態らしい。でも、二人を護ってくれたのはロウなんだよ。」

「……。」

護った……？
私が、母さんとあの子を…………

「本当に……ありがとう。だから……父さんも、二人を護るよ。二人が治るまで、絶対に護り通す。」

……いざというときに頼りにならない父さんに護れるかどうかは疑問に思ったが。
まあ、その真剣な顔から今回は頼ってみようかと思ったのを覚えている。

「……あ、父さん……」

「ん……？」

「……昨日は……ごめん…………あんな事言って…………」

「え……あ、ああ。あれは……謝るのはこっちだよ、ロウの気持ちも考えずに話してたから……」

「……でも……話してもらえて……よかった…………」

「え？」

「……お陰で……母さんを……助けられたから…………」

「……うん、そうか。父さんも、ごめんなさい。」

それがとてもおかしい言い方で。
でも、すごく安心できる言い方だった。

それからは何があったかは覚えてない。

気がついたときは病室だった。
右腕に点滴が打たれて、身体のあちこちに包帯が巻かれていた。

近くの机に置いてあった置き型のカレンダーを見ると、あれからもう一週間も経っていたようだった。
一週間も眠り続けていたのだろうか。ちょっと意識がはっきりしない。

看護士の人が私が起きているのを見るなり、笑顔でこっちにやってきた。
何でもこの病院では私の事を小さな騎士だと噂になっていたらしい。少し迷惑だったが。

母さんはあれから何度か危ない状態が続いたらしいが、無事に峠を越えたとのこと。
ただ、まだ安心できない状況なので出産まで入院することになったらしい。

私は私で高熱、骨折、傷口の悪化と意外と悪い状態が続いたらしい。
言われる分には酷い症状なのだが、自分としてはあまりそんな実感は湧かなかった。

自宅療養するのも出来る範囲だったらしいが、先生の勧めで私も入院になったらしい。
理由は…………

「ロウ！」「気がついたの、よかった！」

母さんが、隣のベッドで入院していたからだ。

私が眼が覚めた頃、母さんは診察を受けていたらしい。
父さんはそれの付き添いだろう。

二人揃って私が目を醒ましたことを喜んでくれた。
恥ずかしいからやめろと言ったが二人はやめずに延々と喜んでいた。

後で聞いた話だが、私が意識が無いとき、父さんは寝ずに付き添ったらしい。
最後には病院でぶっ倒れて、先生に少し世話になったらしい。

……まあ、父さんらしいといえば父さんらしいか。

……私は……この小さな幸福を護ることが出来たのだろう。
私は…………

喜び合う二人に、少し寂しさを覚えた。
私は……私の目的の為に、遠くない将来、この二人に別れを告げなければいけない。