ENo.2519 アシュラフ・イヴン・ズィヤード

　眼前には血を流しながら動きを止めた男の身体が横たわっている。
　エーリッヒは最後の瞬間まで私に助けを求めた。今まさに止めを刺さんとする私の手から逃れるために、泣き叫び、懇願しながら助けを乞い、そうして苦しみながら最後の息を吐き出した。
　直前まで呼吸をし心臓を脈打たせていた彼の肉体は、しかし今やその生命活動をゆっくりと終えようとしているようにみえる。意識はとうにないだろう。だが、意識がなくなれば即ち死であると言えるのかどうかは私にはわからない。

　『本来この世界の住人は一部の例外を除いてマナを宿してはおりません……しかし、その石は、人の憎悪や痛み、生命力そのものをマナに変え、蓄えることができるのです』

　『マナは本来、戦い、奪い、蓄えるもの……この石とて例外ではございません。石にマナを蓄えるために必要なこと、それは誰かを傷つけ、あるいは死に至らしめることにございます』

　女の言葉が脳裏に蘇る。人の肉体とは、厳密にはどこまで止まれば死んだといえるのだろう。
　呼吸が止り、心臓が止まり、脳がその動きを止めたのなら、それは死んだと言えるのだろうか。
　私は確かに彼を殺そうと思った。彼はこの世界にはいてはいけないと思った。私が最初に殺すべきなのはこの男なのだと思った。例えその理由のいくつかに私情が含まれていようとも、その行いそのものは神聖なものであるのだとそう信じた。
　私はこの男を殺さなければならない。私がこの男を殺さねばならない。この男の臓腑を貫いたナイフが、喉を引き裂いたナイフが、心臓を刺し抉ったナイフこそがこの男の命を奪わなければならない。そうでなければ、私は後戻りできてしまう。
　この殺人は私にとって一つの儀式なのだ。
　血流が、呼吸が、間接的にこの男の命を奪うことなどあってはならない。
　だから私は念入りに、もう一度、何度となくナイフを振り上げた。

　焔の月　19日目

　奪った奴隷と駱駝たちを引き連れ、私は東を目指して森の獣道を歩き続ける。
　森の様子は以前とは違って様々な気配に溢れていた。獣たちの縄張りの分布は明らかに以前と変わっているし、森のあちらこちらで人間の残した痕跡と思われるものがみてとれた。点々と残った野営の跡や地面に刻まれた多くの足跡が壁の向こうを目指す人々の残したものであろうことは想像に難くない。きっと、多くの人々がこの森を通過して東へと向かったのだろう。
　彼らがなぜそうまでして東を目指すのか、今の私には痛切に理解できる。以前の私が今の私をみたなら、まさか私が彼らに対して共感と理解を示す日がこようとはと驚くだろう。私の変化はそれほどまでに大きなものだった。たった数日のうちに、どうやら私は生きる意味そのものを大きく変えてしまったらしい。
　あるいはこれはある意味で前向きになったとも受け取れるだろう。恐ろしいのは夢を見なくなったことだ。あれ程私が毎晩のようにうなされ続けてきたあの日の夢をしかし私はここ数日みていない。あの日の罪が許されることなど決してありはしないというのに、今の私は恐ろしいことにそれを『過去』として咀嚼しつつあるようだ。それは許されることではないと過去の自分が叫んでいる。そうして、その主張を今の自分は目的のために受け流す。
　奴隷達に繋いだ鎖が時折じゃらじゃらと音をたてて私にその存在を主張するのが聞こえる。過去の経験から私は奴隷の扱いについては十分に心得ていた。食事を与え、絶望と、僅かな希望を与え続けているうちは彼らは私を裏切らない。私は自分の中に残された知識に従って奴隷に食事を与え、そうしていくつかの契約を結んだ。私に従っている限りは命は奪わない。そして、十分な働きをすれば『壁の向こう側で』君達を解放するとそう囁いた。
　目的のために罪を受け流す。それはこの奴隷たちについてもそうなのだろう。私は目的のためには力が必要だということに気付いてしまった。力は過去の私にはなかったものだ、私はお世辞にも血なまぐさい戦いに向いているとはいえないだろう。だが、この先私が目的を果たすためにはそういった力の行使が必要となるのは間違いない。自らに力が無い者は他者の力に頼るしかない。だが、どうやって？　金で人を雇うのも一つの手だが、人を雇い続けるのには金がかかる。その金額は私の商売で長く賄い続けられるものではないし、そもそもそういった力の行使に躊躇のない者にとっては、私こそがその一番の獲物であるとも考えられる。無償で協力してくれるような相手に心当たりもない。いたとしても、それが信用に値する相手かを考えることなどこの世界では無意味なことだ。
　私は最低限の投資で、長期的に信用できる他者の力を得なければならなかった。そのために、私はエーリッヒに目を付け、彼の奴隷を、商売を奪い取ることを思いついたのだ。
　私は彼よりもうまく奴隷を扱う自信があった。彼よりもよい待遇で、彼よりも良い割合で奴隷に絶望と希望を持たせ、彼よりも鋭く恐怖を植え込み奴隷を従属させる自信があった。従属させた奴隷は力として運用することも、金銭に変えることも出来る。そうして得た金銭を用いて更なる力を蓄えるのもよいだろう。それは過去の私にとって最悪とも思える罪だったが、しかし、現在の私にとっては、最善と考えられる手段だった。

　眼前の茂みが大きく揺れる。何かの気配。おそらくは東を目指す人々の気配。
　数は少ない。恐らくはひとりだろう。私は姿勢を低くし、歩みを止める。
　どうやら、私が得た力を確認するちょうど良い機会が廻ってきたようだ。
　
　