ENo.2084 夜灯

夕食を終え、亥一つ時を少し廻る頃。
野営地の周りを散歩がてらに偵察していると、狐面の守護紐につけてある神楽鈴がふいに鳴り出した。
リリィーンリリィーンと一定の間隔の、まるで呼んでいるかのような音色で……といっても己以外の者にはその音は聴こえないのだが。

｢ふむ………｣

特に切迫した様子ではないが、恐らく呼んでいるのは樺煉の神楽鈴だろう。
そういえばこの前彼女が｢……少し……困った事になってるから……し、暫く間違っても夜にだけは来ないで貰えると有難いわ……｣と言っていたのを思い出す。
鈴の鳴り方から推察すると、何かしらの｢困った事｣が彼女の身に起きているということは確かだ。
樺煉の鈴が私を呼んでいるならば、恐らくそれは私にも手助けができることなのだろう。

もう時間も遅いので、これから彼女の元を訪ねるべきかどうか暫し迷ったが、やはり様子を見に行くことにした。
今日の彼女の野営地はここからそう離れてはいないし、幻妖狐姿で駆けて行けば半時も掛からずに着くだろう。
もし何も無かったならばそのまま戻ってくればいい。
そう決断すると姿を幻妖狐へと変え、するりと夜の闇の中へと走り出した。

彼女の野営地には予想通り半時程で着くことができた。
しかし既に夕食も終えている時間ということもあり、どうやら各自テントの中にいるようだ。
この様子なら無理に訪ねずとも恐らく問題はなさそうだが――――
ひとまず己を人姿へと戻し、どうしたものかと思案した後に、明るく光る小さな幻蛍火をひとつ掌の上に現しふっと息を吹き込んで彼女のテントへと送り込む。
これで気付かぬならこのまま会わずに己の野営地に取って返そうと思いながら。

しかし程なく彼女はふわふわと漂う幻蛍火に誘われてごそごそとテントから外へと這い出してきた。
どうやらまだ眠らずにいたようだ………が、現れた彼女の姿に違和感を感じて眉を顰める。

丁度切れた雲の隙間から射す月の光に照らされた、頭上に生えた珊瑚色の2本の角――――
それは先日夢で見た、彼女の遠い祖先の血流である紅龍の龍角と酷似していて。

｢樺煉、それは一体―――｣

思わず身を潜めていた木立の陰から姿を現し、無邪気に幻蛍火と戯れていた彼女に声を掛ける。

｢……え？夜灯さん……どうしてここに―――｣

私の姿を視界に捉えた彼女が、状況が理解できないまま目を瞬かせて反射的に訊ね。
そして次の瞬間には角の生えた自分の頭をばっと両手で覆い隠して小さく悲鳴を上ると、あっという間にテントの中へと逃げ込んでしまった。

｢いやいやーっお願い、見ないでーっ！｣

｢……鈴が呼んだので来てみたのだが、どうやら困ったことになっているようだな。｣

テントの外から中に篭ってしまった彼女に声を掛ける。

｢先日夢で紅龍を呼び出している樺煉を見た。その時は特に問題なさそうだったが………先祖返りが高じて龍角が生えてしまったのか｣

｢違う……違うの。これは蘇芳…【蘇芳】様のお仕置きで、いつも角が生えてるわけじゃ……！｣

｢【蘇芳】様のお仕置き？｣

｢…………｣

｢樺煉｣

暫く迷っているような気配があった後、頭から毛布を被ったままの樺煉が渋々テントの中から出てくる。
視線を合わせないまま私の目の前に立った彼女の被っている毛布を軽く手で払ってはらりと肩へと落とすと、そこには見まごうことなき立派な珊瑚色の角が２本生えており。

｢―――何があったのか最初からきちんと説明を｣

｢………はい｣

ようやく観念したのか、涙目のまま彼女はここ数日に起こったことをぼつぼつと話し始めた。
最近ご先祖様の血脈である紅龍の【蘇芳】様を呼び出せるようになったこと、何かあればお仕置きで夜間限定で角が生やされるということ、そしてその【蘇芳】様の厳命で神楽舞の特訓中であること――――

｢この姿は夜灯さんには見られたくなかったわ……｣

一通り説明を終えた彼女がしょんぼりと頭を垂れる。

｢別に恥じることではないではないか。綺麗な角だし妖魔らしくて可愛らしい｣

｢…そう言ってくれるのは嬉しいけど……その……できれば角を隠す幻術を教え……あ｣

ふいに樺煉が垂れていた頭を上げて宙を見つめる。

｢どうした？｣

｢その……【蘇芳】様がアナタを紹介しろって｣

今すぐ召喚しろって煩いの…と困ったように私の顔を見上げ。
どうやら彼女の先祖である紅龍がこの場に喚べと彼女をせっついているようだ。

｢喚べばいい。私もその【蘇芳】様とやらに会ってみたいしな｣

｢でも――――｣

｢大丈夫だ。喧嘩はしないようにする｣

まだ不安そうな様子ではあったが、それでも彼女は【蘇芳】の呼びかけに応えて召喚を始めてくれた。
やがてゆらりと頭上の空間が歪むと、紅蓮の炎を纏った紅の東洋龍が現れる。

｢――――思ったより大分小さいな。主が【蘇芳】か｣

一度夢で見ているとはいえ、両手に乗るくらいの大きさの可愛らしいその姿を目の当たりにして素直な感想を述べる。

｢ふん、我が小さい姿でしか現れられぬのはこの小娘の力が未熟だからじゃ。……ふむ、見たところお主は妖狐の種族のようじゃな。それなりに長い時を生きているようじゃが……名はなんという？｣

｢夜灯｣

姿を本来の幻妖狐へと変化させ、正面から真紅の瞳でまっすぐに紅龍の瞳を見つめ返して答える。

「成る程、こやつがそちの頭に飾っておった鈴の贈り手であったか。あれだけのものを持っているからにはそれなりの格の存在のはずじゃが｣

暫し値踏みするように見つめた後、【蘇芳】がすっと目を細めて言葉を紡ぐ。

｢ふむ……大きな妖力を感じるが……眠っているものも多いような印象じゃ。まぁ我もこの程度の大きさではあまり詳しい事はわからんしのぅ。それこれもそこの小娘の妖力が弱い所為で――――」

紅龍は樺煉を一瞥すると延々と彼女に対して小言をはじめ。
いつものことなのか、樺煉はそれをその側でしゅんとしながら大人しく聞いている。
どうやらお仕置きとやらが相当応えているようだ。

「……で、そちとこの小娘は何の縁者じゃ？　はっ、実年齢は兎も角若い容姿の男子がうら若い乙女の部屋をこんな時間に訪問、理由なぞ１つしかなかったな、これはこれは我とした事が気遣いがたりんかったのぅ。若いというのは良いものじゃのう」

樺煉に一通り小言を言って満足したのか、今度はこちらに突っ込みを入れてきた。
神龍と名乗っているわりには俗っぽい。

｢な、なに言ってるのよっ。夜灯さんは私が困ってるのを心配して……｣

｢よいよい。では顔合わせもしたことだし、邪魔者は早々に引っ込もうかの｣

｢ちょ…ま、違うって言ってるでしょー？！｣

それよりこの角消してよ！と耳まで赤くして抗議する樺煉の言葉など意にも介さぬ様子で、したり顔の紅龍がうんうんと頷き。
そしてそのまま来た時と同じようにゆらりと揺らぐと、あっという間にその姿を消してしまった。

｢――――私が口を挟む隙がなかったな｣

暫し紅龍が消えた空間を見つめた後、樺煉と向き合い苦笑交じりに言う。

｢アノヒトいつもああなのよ。人の話なんて全然聞かないのだから…っ｣

成る程、随分高圧的、かつマイペースなご先祖様のようだ。これでは彼女も苦労するだろう。
幻妖狐から人姿へと戻し、まだ憤慨している彼女の肩を宥めるように抱き寄せ、軽く角に口付ける。

｢とにかく今出されている課題は神楽舞なのだろう？舞えるようになれば文句も言うまい｣

｢そうなのだけど、でも結構難しいのよ。お手本だって炎でしか見れないし……｣

｢では私が手本を示そう｣

｢―――え……でもこれって巫女舞なのでしょう？｣

｢そうだな。何なら私が女性体に変化してから舞ってもよいが｣

｢……………そのままの姿でお願いします………………｣

何故かがくりと彼女が肩を落としたのを横目で見て、くすりと笑み。
彼女の相方である羽兎に気付かれないようにと、野営地から少し離れた開けた草地へと移動する。

｢巫女神楽は普通の踊りと違ってテンポを掴むのが難しいから難儀しているのだろう。心配せずとも龍の血脈を引いている樺煉ならすぐに覚えられる｣

言うとふわりと手を一振りし。
柄の端に5尺〜6尺の五色の鈴緒が着いた神楽鈴の幻を出現させる。

｢本来ならば扇舞から舞うべきなのだが、今回は鈴舞だけでよいだろう。一度手本を見せるので大体の流れを掴むといい｣

――――神楽舞など舞うのは久方ぶりだな。
と、心のどこかで思いながら、背筋を真っ直ぐに伸ばすと正面を見据えて立ち。
シャン、と一度鈴を大きく鳴らして神楽鈴を頭上に頂いた後、テンポを取る為に低く神楽歌を口ずさみながら月明かりの中、静かにゆっくりと舞い始める。

【天地（あめつち）の神にぞ祈る】

舞い始めると同時に次第に心が空白になっていく。
何故私は神楽舞が舞えるのだ、という疑問すら闇に溶けてしまうほどに。

【朝なぎの　海のごとくに波立たぬ世を】

ゆるやかな舞の合間にシャン…シャン…と涼やかに神楽鈴を鳴らす。

―　常に神と共にあるということを忘れずに、神人一体となって舞うことが大事なのよ　―

白い小さな影が　揺れるように耳元で囁く。

――― そうだったな。しかし私は人ではなく聖獣で、そもそも神など ――――

普段よりも鮮やかな血色に染まった瞳で、シャンっと鈴を魔を祓うように強く振り。

――― 神など、あの日から信じてはいない ――――

【1645さんをお借りしました】