ENo.749 クロエ・ルガ＝リフェクティ

あれはいつのことだっただろうか。
とおいとおいむかしのはなし。
とおいとおいところのはなし。
とおいとおいきおくのかなた。

『――また、こんなに傷だらけになって』

聞き覚えのある女性の声がする。その口調は怒気と慈愛を帯びていた。

『また喧嘩してきたのね。特訓をするのは良いけれど、そういうやり方はお母さん、どうかと思うわよ』

――お母さん。そうか、これは昔の話。昔の記憶なんだ。

『でも、おとうとがいじめられてたら、みすごせないよ……！』

気がつけば私は傷だらけの身体で、母親の前に座っていた。そして、そのようなことを口にする。
机が、椅子が、そして何よりも母親が、覚えている記憶の中のそれよりもずっと大きく見える。
周りが大きいのではない。私の方が小さいのだ。それだけ、昔の記憶なのか。

『あなたもお姉ちゃんになったんだから、ね？　勿論、弟を守ってあげるのも、お姉ちゃんの大事なお仕事よ。何より、私達人狼は、戦う為に強くなくてはいけない……だけどね――』

母親が小さな私の右腕をとって、優しく包帯を巻いていく。驚くほど手際が良い。しかし、痛みに耐えきれなかったのか、私の双眸にはこらえきれない分の涙が溜まっていた。今となっては、この程度の傷から来る痛みなど、何も感じないに等しいというのに。

『――もう少し、自分の身体を大事にしてあげなきゃ。あなたも、女の子なんだから』

包帯を巻き終えた母親は、私の頭にぽん、と手を置いた。
そのままくしゃくしゃと優しく私の髪を撫で回す。思い返せば、傷を負って家に帰った時は、いつも
これだった。そうやっている内に私はいつも眠くなって――

――目覚めた。

瞼を擦ったその向こうには遠い昔の記憶は無くて、あるのはただ、高く聳える木々と草むらだけだった。

クロエ「起きないと……んっ」

どうやら、気を失っていたらしい。身体の具合からして、そう長い時間ではない。おそらく、１０分も経っていないだろう。ここに来た時のように、身体中が痺れているようなこともない。問題はそこではなかった。腕を支えに起きようとした際に、右腕に走る激痛。視界の隅に映る赤い血だまりが、私の置かれている状況を思い出させる。

クロエ「……手痛くやられたか」

人狼の自然治癒力が無ければ、危なかっただろう。どうやら腕に酷い怪我を負ったらしい。掌を握ったり、開いたりしてみる。何の問題もない。指の先までしっかりと動く。出血はしているが、現状はそこまで大きな損傷ではない。
しかし、このまま無理に動かし続けるのはあまり良い対処とは言えない。私は持っていた袋から消毒液と包帯を取り出し、応急処置を始めた。

クロエ「……まだまだ、だな。武は父親に劣り、傷の治療も母親に敵わない」

ぐるぐるとぶっきらぼうに腕を何周か巻いた包帯を、何とはなく草の上に投げ出した。
包帯はころころと草の上を転がり、やがて何かの棒きれにぶつかって止まった。

視線を少しばかり上へやる。棒きれは、どうやら古ぼけた看板の一部であったようだ。

クロエ「エスタの街、か……」

それだけ街に近づいていたということか。見れば、空は既に赤く染まりつつあった。

数時間歩き続け、ようやくエスタの街に着いた頃には日はすっかり沈んでしまっていた。

古風な建物が建ち並ぶエスタの街は、何処か里を思い出させる。

適当な宿を取り、ベッドに入って目を閉じる。

明日からはまた、歩き続けなければいけない。今日のところは、休むとしよう。