ENo.398 シェリー・クレドニアス＝スミス

シェリーが髪を下ろしていた。

まだ日が昇って暫く、森と険しい山岳の間に挟まれた地帯。森から届く湿った朝靄の匂いを感じる。
イリーナお手製の朝食を有難く頂いた後、後片付けを買って出る。街の宿で取るならばともかく、野営では最低限のものしか持てないし使えない。皿の一枚すら惜しいと思われるその場で、アルミのマグを人数分揃えているあたり自分達は暢気かと思われるかもしれない。ついでに小さいケトルもある。
そのマグも、イリーナが街で調達してきたものだった。
「名前を書けば間違わないよね！」
ということで、それぞれが名前を書いてある。それらを纏めて水で（水も随分貴重品だったが、山に入る前に近くの湖で調達できた）濯ぎ片付けていく。家事は好きだ。目的と結果が明確だし、達成感もある。
他の面々は起きてそれなりに整えた身なりを本格的に整えるべく、それぞれが支度を始めていた。流石に女性が3人もいるとあっては身支度に時間がかかるのも道理である。男とは本当に楽なもので、起きぬけに髪を手櫛で撫でつけ、顔を洗って終わりである。女性並に身支度をするほど僕はそもそもの素材が良くないし、あんまり気乗りしない。僕は体毛が薄いほうで、髭なんかも目立たない方なので野営が続く最中でも気にするほどではないのが有難かった。
女性の身支度というのは見てはいけないというある種タブーめいた考えが僕にはあった。それは妹と接してきた中培った経験とも言える。流石に着替え中に覗くというのは自ら遠慮するけれども、化粧やらその前段階ともいえる鏡を睨みながらぶつぶつ呟いている（あれは何をやっているのだろう？）最中ですら出くわせば見ないで！　という怒号が飛んできたものだ。
女性の心理としては完璧な状態で表に出たいということなのだろう。ということで僕なりに気を遣って朝食の後片付けやら野営を畳むことやらを率先してやっていた。

そんな最中、ちらりと視線を向けると（衝立も何も無い状態では見えてしまうのも仕方が無い。……決して言い訳ではない！）いつもは一つに結い上げている黄緑の髪を下ろして梳る彼女が見えた。
彼女は身なりに気を使わずにひたすら鍛冶業をやる訳ではない。むしろマナーとしての身だしなみは結構気遣っている方だ。鍛冶職人も人と会う職業、身だしなみは清潔にという認識で多分合っているだろう。二人で居たときも彼女は僕より早く起きて完璧な状態で僕の目覚めを迎えていた。――僕より寝るのが遅かったのにも関わらず、だ。

そんな彼女の髪はさらさらと流れるようで、色と相まって風に吹かれる草原を思い出す。
心なしか彼女の顔も普段より柔らかい。
いつも大事そうに付けている髪留めもすべて取り去った髪は――彼女の手が大事そうにその髪留めを握っているのが分かってしまった――山岳地帯の乾いた風に吹かれながらも櫛に絡まることはなかった。そろそろ昇り始めた太陽の光をうけて、髪の一本一本が金糸のようにきらきら輝いている。
僕は手を動かすことも忘れて、食器を仕舞うべく解いていた荷物もおざなりにそれを見つめていた。簡単に言えば見惚れていた。
――綺麗だ。

髪を結んであとはフードを被るだけというイリーナがそろそろと近づいてきて、いつものように談笑しはじめた。声は聞こえない。けれども、彼女たちの表情が会話の中身を物語っている。
――シェリーちゃんの髪すっごく綺麗だねえ！
――そうか。特別なことは何もしていないぞ。
たぶん、こんなことを話している。イリーナの手が彼女の髪を触る。いいなあ、とかそういうことを言っているのだと思う。彼女が少しだけ口元を緩める。イリーナと話す時の彼女は大抵毒気を抜かれてしまって物腰が柔らかい。
…………
……………………

どれくらい時間が経ったか。きっと数分の出来事だったかもしれないが、僕には無限もかくやという時間に思えた。
中途半端に荷解きをしていた鞄が何も力を加えていない手からずるりと落ちて、もう限界と言わんばかりに地面にどさりと落ちた。服やら細々した私物やらが辺りに撒き散らされるのを見て、ようやく僕は我に帰った。
彼女たちに物音は届かなかったらしく、特に咎められることはなかった。何をやっているんだと心中で呟きながら僕は荷物を拾い集める。その中に見慣れていたけれどすっかり忘れていたものがあった。
僕の携帯。
留学するという名目で国際電話も出来るとかいう謳い文句につられてしまった中途半端にタッチパネルが搭載されたスライド式の携帯だ。
ここに来て十数日、この世界の時間と僕が居た世界の時間が同じとは限らない（と、中途半端に小説にありがちな思考をしてみる）でも恐らく、この携帯の充電は切れていると考えて然るべきだ。
手馴れた手付きで電源ボタンを押す。
何故か願うような気持ちだった。
しばらくするとバイブの振動と共に画面が明るくなる。点いた――バッテリーの残りを表す電池マークは残りひとつだ。充電が残り少なくなったら電源を切り、しばらくして再び点ければ電池マークが復活するという実しやかな噂ということなのかもしれない。もしかしたら奇跡に近いのかもしれない。
僕は何も思わずに、カメラ機能を起動させた。
レンズを彼女に向けて（イリーナはわざと見切れさせた。若干すまないと思った）ピントを合わせる。バッテリー不足の警告音が鳴る。
彼女の顔がこちらに向くか向かないかというタイミングで、僕はシャッターを切った。
保存ボタンを押し、保存できたか出来ていないかというタイミングで携帯のバッテリーは終わりを告げた。

＋＋＋＋＋＋＋

「とっ……」
撮ってしまった。これでは隠し撮りだ。
電源が切れて真っ黒な画面には何とも酷い顔をした自分が映っていた。嬉しいのかそれとも悲しいのか、表情がごちゃ混ぜになっていて自分でも全く分からない。そもそもシャッターを切ったはいいがそれがデータとして残っているかは非常に怪しい。保存ボタンを押したはいいが僕は早々に画面から目を背けてしまって猛烈な自己嫌悪に陥っていたからだ。再び画面を見ればそこには自分の顔が――というわけである。
恥ずかしい。恥ずかしすぎてここから消えてしまいたい気分だった。
「のう、これはそなたの私物ではなかったか？」
「……うわっ！？」
特に気配を消すこともなく近づいていた風早に気づくことはなく、肩に手をおかれてようやく情けない声と同時に弾け飛ぶように振り返った。今まで疚しいことをしていた身としては（僕の基準では十分に疚しい）心臓が早鐘を打つ程に驚いていた。目の前に安物のネックレスを掲げられて、ようやく話の筋に合点がいった。多分さっきぶちまけた時に飛んでいったのだろう。
「あっ……ああ、えっと、ありがとうございます……？」
「何というか……なんて顔をしておるんじゃ」
呆れたような、それでもどこか楽しんでいるような顔つきで風早は言った。彼女は年の功とも言えばいいか、大抵の場合僕の考えている事を見透かしている。けれども今回は僕も僕自身の考えていることは全く分からなかった。指摘されてもそれが本当に僕の本心が思っていることなのか、判断することは出来ないと感じた。
「あの…………ぼ、僕」
風早は何も言わず（そういえば彼女の身だしなみにかける時間は他の二人よりも短かった。手をかけないというよりは手際が良くて時間が短縮されているのだ）一言だけ唸るといつもの僕をからかう様な顔で言った。
「とりあえず顔を洗って来ることじゃな。そなたとんでもない顔をしておるぞ？」
頬を摘まれて、その微かな痛みにだんだんと落ち着きを取り戻しつつあった。
「…………は、はい」
「今日は単独行動じゃと打ち合わせておったしのー。まあ出発の機会はシェリーと打ち合わせて好きにすればよいが……集合には遅れてはならんぞー？」

単独行動。
つまり、今日はシェリーと僕の二人だけ。
今の僕には気の遠くなるような話だった。