ENo.2519 アシュラフ・イヴン・ズィヤード

　
　何かを得るためには、なにかを失わなければならない。
　例えば取引がそうだ。私は金銭と引き換えに商品を引き渡す。逆もまた然り、なにかを得るために対価を支払うことは私にとってある意味で当然のことだった。
　
　「アシュラフ様、あなたにこれを授けましょう。この宝石はかつて世界の果ての果て、数多の魂の饗宴の舞台たる赤き島にて磨き上げられた、あなた様が運命に抗うための鍵となる品物に御座います」

　手渡されたのはわずかに赤みを帯びた歪な宝石だった。陰鬱な色をした石……その中心が僅かに揺れる。揺れているのは水だ。石の中央には水が封じ込められている。

　「その石にはマナが封ぜられております。マナとはすなわち願いを叶える力。望むもの全てに力を与え、可能性を引き出し、運命をねじ伏せることを可能とする万能の力にございます。
　……しかし、いかなる物語にも障害は常に付き纏うもの。残念ながら貴方様の綴る物語についてもそれは例外ではございません」
　
　蝙蝠羽の女はわざとらしく肩を竦めてみせる。それでいて、口元に浮かんだ笑みは隠そうともしない。

　「その石に封ぜられたマナは、残念ながらアシュラフ様の願いを叶えるには量が足りておりませぬ。この世界という名の牢獄から貴方様を救い出し、お嬢様の身に迫る狂気を取り払うために必要なほどのマナが、その石には残念ながら最初から封ぜられてはいないのです。足りないものは継ぎ足さねばなりません。つまり……」

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焔の月　18日目

　「あれだけの事を言っておきながらそれを許してもう一度組もうってんですから、旦那、もっとあっしに感謝して貰いたいもんですね」
　エーリッヒは相変わらず卑屈に笑う。私はそんな彼の後をついて荒れ果てた街を歩いていた。
「あぁ、すまなかった……あのときの私はどうかしていたんだ」
　「全く勘弁して貰いたいもんですよ、いくら心の広いあっしでも次はありやせんからね？」
　街の様子は散々たるものだ。古びた建物はその多くが崩れ落ち、そこら中に物乞いや力なくうずくまる人の姿がみてとれる。荒廃と諦めに支配された街の姿。そんな光景の中を、エーリッヒは建物や人の影を縫いながら背を丸めて猫のように通り抜けていく。
　あの女との邂逅の後、私は踵を返してドネスクへと戻りエーリッヒを訪ねた。といっても、彼の居場所についてあてがあったわけではない。にもかかわらず私が彼を簡単に見つけることができたのは、ひとえにエーリッヒがこの街で想像以上に力を蓄えていた結果といえるだろう。街の住民に彼について尋ねると住民たちはすぐに彼の居場所を教えてくれた。いくばくかの憐憫と、隠し切れぬ軽蔑の眼差しと共に。
　「さっき会ったのがこの辺一帯を仕切ってる元締めの御方でさぁ。まぁ旦那のことだから上手くやるんでしょうが、あの方は結構気難しいんでお気をつけになったほうがいいでしょう」
　私のことを余程気に入っていたのだろうか。エーリッヒは先の出来事をあっさりと許した。勿論最初は嫌味こそ言いはしたが、もう一度組んで商売をしようという私の提案を彼は払いのけはしなかった。
　「ええと、次に会っておくべきなのは……」
　エーリッヒは矢継ぎ早に言葉を口にしながら縦横無尽に街を歩いていく。私は彼に案内されてこの街の方々を見て回った。途中、多くの人と会い商売の話をした。彼らはエーリッヒの商売に関わる人々だった。土地の有力者、乞食の元締めなどエーリッヒは様々な人と縁を作り、自分の商売を確固たるものへと押し上げていた。彼の作り上げたネットワークを私はエーリッヒの口から聞き、自分の目でみながら理解していく。
　「で、最後に商品保管庫ってぇやつです。……おっと、頭に注意してくだせぇ、入り口は一段と低くなってるもんで」
　長い時間をかけて方々を巡った私が最後に案内されたのは、街のはずれにある小さな屋敷だった。言われた通り頭に気をつけて扉をくぐる。入った途端、饐えた匂いが鼻を突いた。恐らくは尿の匂い。奴隷を真っ当に管理できていない匂いだ。
　「エーリッヒ、ここの管理はお前一人でやっているのか？」
　廊下を曲がり、地下へと続く階段を下る。地下に近づくにつれて匂いはいっそう強さを増した。
　「ああいや、別にあっし一人ってわけじゃぁないんですが……こりゃあなんていうんでしょうね、土地柄の違いって言やぁいいんでしょうか」
地下室には牢獄のようにいくつかの部屋に分かれて檻が設えられていた。檻の中には幾人かの人間の姿があるが、一目みて健康とわかるものはごく僅かしかおらず、多くがやせ細り虚ろな視線を地面に向けている。
　「セルフォリーフと違ってここじゃ人間と物の価値が吊りあわないんですよ。こいつらを真っ当に飼おうとしたら餌代やらなんやら諸々の費用がかかるわけですが、まぁここらじゃあその諸々のほうが奴隷本人より高くつくことも珍しくはないって寸法でして」
　そう言いながらもエーリッヒは鼻をひくつかせる。
　「匂いが耐えられたもんじゃないってのはあっしも同意しますがね。奴隷も売りもんである以上健康であるにこしたことはない、しかしそうはいってもいろいろ難しいもんです。奴隷を綺麗に保つにゃあ、金がかかる」
　「それに……奴隷の価値ってのがここじゃぁ前の世界とはちぃと違うんですよ。だってこの世界にゃあ乞食は山ほどいるんですから、真っ当な働き手が欲しいならそいつらを直で雇っちまえば事足りるんです。国だってない。人種だってバラバラです。働き手として奴隷を別の土地から引っ張るやり方は通用しない。つまり、あっしらが扱う商品ってなぁ……真っ当じゃない扱い方をされるほうの奴隷のことなんですよ」
　檻の隅のほうからすすり泣く声が聞こえる。その声を無視するかのようにエーリッヒは言葉を続けた。
「さておき旦那、これが買い手のリストでさぁ。上から順に客が次に欲しがりそうな品をならべてありやす。一番上の段落は人肉食専門のやつ、若い女や子供を好みます。肉がほかより柔らかいんだそうで。で、その下は……」
　紙を捲り上げる音と共に、エーリッヒの口から次々に“真っ当ではない”奴隷の需要が零れ落ちていく。私は彼の言葉を聞きながら自分の思いつきが間違いではなかったことを確信した。なるほど見込み通りこの男はたいした男だ。こんな痩せた土地で、この土地に合った奴隷の扱いを思いつき、ものの数年で実行した上で商売として軌道に乗せた。この男の手によって幾人もの人間が絶望の底へ落とされただろう。そして、これからもこの男の手によって、この世界はゆっくりとより悪しき流れに傾いていくのだろう。
　ああ、やはり間違いない。
　“最初の一人には、こいつが適任だ。”
　「エーリッヒ」
　なおも取引先について語るエーリッヒを遮り、私はゆっくりと左手をあげて言葉を制した。
　「ん？　なんですか旦那、なにか気になることでも？」
　彼がきょとんとして私の双眸を見つめる。話を途中で止められたことが気に食わなかったのだろうか、彼の眉がぴくりと歪んだ。
　「説明をありがとう。もう十分だ。もう十分……お前の商売の根幹は理解した」
　「……？　なにを言ってるんです旦那、これはもうあっしだけの商売じゃあないですぜ。あんたにはこれからあっしの手足となって働いて貰う必要があるんです。まだまだ知っておいて貰わなくちゃあならないことが山ほど……」
　訝しげな表情のまま、手に持ったリストはそのままに彼は私に近づいてくる。
　視線を彼から外して檻のほうへ向けると、先ほど檻の隅ですすり泣いていた声の主が目に入った。そこにあったのはやせ細った少女の姿。目は赤く腫れ、髪は埃と脂に塗れ、その顔には怯えの表情が見て取れる。これは悪だ、と私は思った。そして私は、この悪にこれから加担するのだ。
　だが。
　――だがその前に。
　エーリッヒが近づいてくる。首をかしげ、なにかを問いたげに。

　そして、私は彼が近づいてくるのを待ち――彼の脇腹にナイフを突き立てた。