ENo.1638 リィセ

グルルルル…

「………。」

腹の底から響く、唸る音

グルルルル…

「………。」

いや

別に、怒っている訳でも、何かを威嚇している訳でもない

ぐるるるるぅ…

そう、これは…

｡o○（お腹、減ったなぁ…）

腹の虫が鳴っているんだ

フリストを離れてから、まともな食事を取れていない

道すがら小動物を狩りでもすれば、
食べ物はそれなりに得られるだろうと思っていたのだが…　少々甘い考えだったようだ

道中出遭ったのは、椰子の木や砂ミミズ、そして兎。ただし綿の詰まった、人形の兎
贅沢は言わないつもりだったが、そんなものは流石に喰えやしない

砂浜に打ち上げられた魚の屍骸を漁り、
痛んで打ち捨てられた果物を拾い齧って、飢えを凌ぐ日々

「………。」

西に長く伸びる平原を進み森へ差し掛かると、どこからか漂ってくる、湿り気を帯びた風の匂い
歩みをそちらに向け水の音を頼りに進むと、ほどなく、澄んだ沢に行き当たった

さらさらと静かに流れる水面に鼻先を突っ込み、
ざぶざぶと音を立てて荒っぽく口の中に水を掻き込む

喉が渇いていた訳でも無いのだが、水でもなんでも、
とりあえず腹に詰め込んでおかねば、おさまりがつかない

ひとしきり清流の味を堪能した後、顔を上げ、ぺろりと舌で口を拭う

行く先々に幾つかの水場があったのは、幸いだった
空腹はともかく、渇きに苛まれなかったのはありがたかった

「………。」

耳をそばだて、生き物の気配を探る

水鳥の羽音、羚羊が草を食む音、野猪が土を掘り返す音
獲物が居ない訳ではなさそうだ…

だが残念なことに、どれも手頃とは言い難い

水鳥は、警戒されず近づくのに難渋する
川岸の奴でなければ捕らえられず、おまけに何かの拍子で空へ飛ばれればお終いだ

捕らえられない獲物ではないのだが、時間はかかるだろう
首尾よく仕留めたとしても、その頃にはきっと日が傾いている

羚羊や野猪を狩るのは、危険が付き纏う
抵抗されればこちらも相応の怪我を負うだろう
擦り傷や打ち身程度で済んだなら傷を舐めてお仕舞いだが、
筋を痛めたり肉を裂かれたりしては、治るまで動くこともままならなくなる

それになにより、体力を使いすぎる
ここに留まるつもりで数日分の食料を確保するのならまだしも、
旅の最中に行き掛けの駄賃で狩れるような相手ではない

腹は満ちたが怪我や疲れで先に進めないとなっては、本末転倒だ

今は狩りに時間を費やすより、空腹を堪え街を目指すべきなのだろうな

地面を踏みしめる脚に、視線を落とす
目に入るのは、獣の足

矢をつがえることも、弦を引くことも叶わぬ、獣の掌

「………。」

ああ

弓が、使えればな…

瞼を閉じ、大きく息を吐くと、苛立ちをぶつけるようにがさがさと騒がしく梢を揺らしてその場を後にする

突然の物音にうろたえた水鳥の、ばたばたと羽ばたく慌てた音が、背後から届いた

- - - - - - - - -

森を抜けると、砂地が広がっていた

ひとの姿をちらほらと見かけはじめる。街はもう、すぐそばのようだ
先を急いだのは正解だったな

人気の多い北の正門を避け、東から街に近づく
今夜はここで過ごし、翌日の早朝に街へ潜り込むとしよう

日が陰るまで、まだ間があるようだ
辺りに目ぼしい獲物でも居ないだろうか？と、砂丘の上から目を凝らす

獲物を探して開けた砂浜を眺めていると、
ふと、子供の頃を…狩りに出かけた時のことを、想い出した

アイツと2人で出かけた、狩りのこと

「………。」

あの時は、こんな砂丘ではなく、草が生い茂る緑の丘だったが

- - - - - - - - -

あれは私が弓を覚え、猟を初めて間もない頃だっただろうか？
猟とはいっても、里のそばの草原で鳥や兎を狩る程度のものだったが

あるとき、アイツが唐突に「一緒に狩りにいきたい」と言い出したのだ

アイツはまだ幼く、弓どころか刃物さえろくに扱えない歳だった
付いて来たってなにもできやしないぞ？といっても、
それでも行きたい！と譲らない
言い合った末に、とうとう根負けして一緒に出かけることになった
見ているだけだぞ！邪魔をするなよ！と釘を刺してはおいたが

約束の日は、早朝から草原へと向かった
陽が昇ってからのんびり出かけようと考えていたのだが、
まさか、夜が明けきらないうちに叩き起こされるとはな…

朝露の滴る草の匂いとそよそよ髪を揺らす涼やかな朝の風が、
気だるい眠気を綺麗に晴らしてくれたことを覚えている

ほどなく、見晴らしの良い丘に着き、そこからぐるりと草原を見渡す
アイツは本当に、ただ私に付いて来て、傍から私を見ているだけだった

それでも、狩りをするというだけで…2人きりで里の外に出るということだけで、
小さなアイツには十分な冒険だったんだろう
不安げに、そして珍しそうに、きょろきょろとあちらこちらを見回していた

そんなアイツを横目に見ながら、獲物に気付かれぬよう、そっと弓を構える

しかし、アイツはそんな私にお構いなく、
羽ばたく鳥や、跳ねる兎を見ては、私のたてがみを引っ張り、驚きの声をあげる

その声はもちろん、私だけでなく獲物にも届いている
当然、気付かれて一目散に逃げられてしまう

あー　と残念そうな声をあげるアイツ

いや、原因はお前だから

しばらくは我慢していたのだが、懲りずに繰り返すものだからこちらとしてはたまらない
何度目かの落胆の声の後、ついに堪忍袋の緒が切れた
しずかにしていろ！と怒鳴りつけ、拳骨を食らわせてやった

アイツの目にたちまち溜まる涙。溜息をつく私

でも、その涙はこぼれなかった
泣き出して、狩りはお終いかと思っていたので、意外だった

騒がしくしないなら見ててもいい。というと、静かに頷く
私も頷き返し、小高い丘に2人立つ

草がさあさあと波打つ一面の緑を眺める

波に逆らって揺れる一角に目を凝らす

…いた

お互い目配せをすると、身を屈め、息を潜めて獲物に近づく

風の流れを読みとる。よし、この位置なら…届く

すっ…と身体を起こす
きりり。と弦がきしむ
ひゅん。と矢の奔る音

アイツは、目を輝かせていた
興奮した面持ちで、弓を引く私の一挙手一投足を、食い入るように見つめていた

弓を覚えて自分も狩りに行きたいと言い出したのは、そのすぐ後のことだった
まだ無理だと言っても頑として聞かず、なだめるのが大変だったな

そんな、幼い頃の想い出

今頃、アイツはどこかで弓を引いているのだろうか？
弓の腕前は、上達しているのだろうか？

- - - - - - - - -

ぼんやりとした、夢の中の出来事のようにもおもえる幽かな記憶
そこからふたたび、現実に意識を引き戻す

眼下に広がるは、アンジニティの砂丘

「………。」

アイツも、弓を持てる歳になってからは、猟に出るようになった

だが…　

正直、成果は芳しくないことの方が多かった

最初のうちは、こんな日もあるさと強がっていたが、
いつのまにか、アイツはあまり狩りに出向かなくなってしまった

猟に出たものの、手ぶらで申し訳なさそうに帰ってくる姿を見るのは、こちらも辛い
結局、私が猟を担当して、アイツは畑へ行く日が多くなっていった

何度かアイツの狩りに付き合ってみたが…肝心な時に外してばかりだった
稽古の時はしっかり的に当てていたから、筋は悪くないはずなんだ
獲物を前にすると、緊張して余分な力が入っていた。たぶんその所為だろう

ただそれでも、上手く射止めるときはあった

そのときのアイツは、とても嬉しそうに笑っていた
獲物を抱えて喜び、仕留めた時の様子を楽しそうに何度も語る

私は、そんなアイツの喜ぶ姿がとても好きだった
私は、そんなアイツのはしゃぐ声がとても好きだった

だから、アイツに狩りの技を教えたり、猟に付き合ったりするのは苦ではなかった

たとえ外しても、次の矢を渡してやった
今度はもっとよく狙え。と

私は、アイツの笑顔が、本当に好きだったんだ

うん…？

唐突に、気付く

アイツの笑顔を最後に見たのは、いつだっただろうか？

　　　　　　　　　　アンジニティ
最後と言っても、この世界に堕ちてからのことじゃない
故郷に居た時のことだ
私がまだ、ひとの姿を保っていたときのことだ

私が顔を向けると、塞ぎ込んで目を伏せる
いつからかアイツは、笑顔を見せなくなっていた

アイツは別に、性根が暗い訳ではない
呼びかければ、微笑み返して返事はする

しかし、それは、社交辞令や、愛想笑いのような
挨拶の延長線上にある「笑顔」だ

嬉しくて、楽しくて、心の底から出てくるような笑いじゃ無い
口を開いて、思わず声を上げてしまうような笑いじゃ無い

幼い頃のアイツは、よく笑っていたはずだ
昔のアイツは、些細なことでも嬉しそうに、楽しそうに話して、
そして、笑っていたはずだ

何故？

何故、アイツは笑わなくなったんだ？

いつから、アイツは憂鬱な顔ばかり浮かべるようになったんだ？

何故だ？