ENo.96 トレニア＝フロイントリヒ

　……意識が浮上する。
　重い泥を引きずりながら、這い上がるような覚醒。
　まずは思考が形を取り戻し、次いで手指が感触を覚え、ようやく知覚を現実へと呼び戻す。
　力を込めたら、体が軋むように痛んだ。
　床に寝ていた記憶はあり、そこから身を起こしたのだから状態に驚きはない。
　少なくとも自力で動ける程度には回復したのを確認して、ある程度身を整えると一息をつく。

　――自分を囲むように配置された魔法石。
　肩の毛布は幾らかずり落ちたものの未だ足元にかかったままだ。

　昨夜、自分はこの野営地で襲撃を受け、負傷の末失血で倒れた。
　その時、共にいた少年と色々あって……。
　説明するのも億劫なのだが、とにかく気まぐれでらしくない事をしたのだと思う。
　反省すると色々きりがない、少年への応対にしたって、そんな余裕はなかったと分かりきっていても、もっと上手く繕う事が出来たと思ってしまう。
　毛布も、魔法石も、その時の事によって遺されたもの。
　一晩経ち、未だ力を残したままのそれらを風と光に分けてポケットに入れ、部屋を片付けた。
　とはいえ、大半は彼が昨夜やってしまったため、殆ど点検だけで済んでしまう。
　後は体の状況と今日の予定をどうするか。

　傷口を押さえて様子を測る。
　出血は収まっているが、焼け付くような鈍痛。
　痛覚を抑える薬はまだ必要だろう。

　幸い回復魔法は問題なく効いていて、自力で動けるまでにはなっていた。ただ、大事を取るなら後2日くらいは休みたいところだった。“大事を取るのなら”。
　……昨日はらしくない事をしたものだ。
　だから、その分今日頑張る事で差し引きゼロにしても構わないだろう。

　過ごす一日はそう大した事をしている訳ではない。
　午前は荷物と部屋の整理をして、その時の点検次第で午後の予定が決まる。
　強いて言うなら治癒物資を予備でもう少し欲しいくらいで、買い物をしてから帰ろうと思いつつ、気まぐれで学校に立ち寄った。
　面倒な事にならないように、周辺の気配に気を配りつつ。

　意識が鈍く朦朧としているが、なんとか意志力で支えられる範囲に収まっている。
　或いは薬の効きを強くせざるを得なかったから、その分のしわ寄せが意識に来ているのか。
　包帯と服の上から傷口へ触れる。
　痛みはなにより現実感を帯びていて、その事にひたすら安堵した。

　丁度講義が終わった頃なのか、ぱらぱらと校舎から出てくる生徒たちを避けると、顔見知りに遭遇した。

「――トレニアさん？」
「Ja．」

　少し首を傾けてイリヤさんの呼びかけに応える。
　何か用事があるのかとの問いかけに、苦笑して首を横に振った。
　実のところ、冒険に必要な手配は毎回早めに済ませている。だから予定というほどのものもなく、果たすべき役割もない。
　じっとしているのも落ち着かないから、それ位はあって欲しかったのだけれど。
　だから、今回は用事を探しに来たというのが一番正しいのだろう。
　イリヤさんの方と言えば、何かを疑問に思ったのかやはり同じように考え込んでいた。

　思案の挙句、予定がないならアトリエでお茶をしないか、と。

　意外ではあったがタイミング的に唐突という事もなく、もしかしたら人目を避けたいのかもしれない。
　――或いは気を使ってくれているのか、どれにしても拒む理由はないから、私は黙って頷きを返した。

　イリヤさんが連れて行ってくれたのは、応接間の類ではなく、もっと奥にある居住スペースのようだった。
　此処までは入ったことがないから、多分、としか言えない。
　勧められて、椅子に腰掛けると目眩で体が傾ぐ。
　立っている間はまだ良かったが、体を預けた事によって疲労が一気にのしかかってきた。
　イリヤさんがお茶を持って戻ってくる、が。

「もしかしてと思うんだけど」

　体調が悪いのではないか、と遠まわしに探られたから苦笑しつつも素直に頷いた。
　聞かれなければ黙っているが、強いて無理に隠す事でもない。
　……傷を負い目に思ったことなど一度もない。

　手当は自分で済ませたから、少し休ませて貰えるだけでいいのだと口にする。
　普通は使わないような薬の匂いがするんだけど、と言われて、相変わらず遠まわしな物言いに敵わないのだと笑みを漏らしてしまった。
　少し行儀は悪いが、背もたれに体を預けさせて貰う。

「イリヤさんはとても鋭い」

　とは言え、職業柄ばれても当然か。
　普段は匂いが漏れないように抑えているが、今回は薬の量を上乗せしないととても意識を保てそうになかった。
　口を噤むなら追求されない気はするが、それは果たしてどうなのだろうと考えこむ。

「傷を負った理由は話せませんが」

　表面的に起きた現象はそう大事な事じゃない。

「……何故こうしたかという理由なら、まぁ」

　◆

　考えをまとめるのに、数秒の時間を必要とした。
　理由は明確だからそこを再考する必要はない、問題はどう話すかという話。

　――始まりの理由は。
　思い返すと躊躇しかない。
　話すとは言ったが、これを、よりによってイリヤさんに話してもいいものかと。
　不快にさせるだろうし、彼の傷を更に深くしてしまうかもしれない。
　私が抱くもので、彼が抱くものを重くさせるのは本意じゃなかった。

　でも、彼が静かに待つ姿勢を見せるのは受け止めるという意思表示でいいのだろうか。
　気持ちを勝手に汲み取るなんて出来ないけど、拒絶を見せられるまでは、話してみようと思った。

　余り積極的に触れはしない話だが、私はかつて教会に所属していた。
　教会に拾われた孤児の一人で、物心ついた時から私に生活は教会の中に溶け込んでいた。

　従順で素直、そして敬虔。
　私の物腰は教会にて好ましいものとされ、教会の推薦を受けて私は幼少から幹部候補生のための教育を受けさせられていた。

　この身に聖痕が発現したのは12歳の時の話。
　私達の世界にて定められた聖母、マーテルを示す聖痕が三つ。
　大人たちは言う、神に選ばれた証、神への忠誠としてこれ以上のものはないと。

『そうですか』

　特に感慨はなく、私は微笑んでそれを受け入れた。
　聖痕があってもなくても私の生き方なんて変わらない、そう思っていたから。

　――結論からいえば、私は聖痕がもたらす運命を甘く見ていた。
　興味がなかった、というのが本当なのだろう。
　確かに私は従順な神の下僕だったが、別に神を信じていた訳ではない。
　ただ仕えることが私の生き方だっただけ。

「選ばれたといっても私は所詮聖職者です、剣を持って誰かを助ける事は出来ません」

　　――祈りで救われるなら、この世はとっくに楽園ですよ――

　枢機卿はいいことを言う、確かにその通りだった。
　幾ら私が命を引き戻す奇跡を持ってるといっても、実際に戦う英雄たちが、傷ついたことには代わりないのに。

「――君は」
「……Ja．」

　要するに、私はそれがいやだったために剣を取った。
　身を刻んででも、最速で障害を払いのける事を望んだ。

　――英雄たちは、十分私の代わりに傷ついた。
　ならば、その傷はこれから私が代わりに受けよう。

「私は加減を間違えません。
　……私は死なない、彼らが無茶するよりは、余程マシです」

　指を重ね、祈るような言葉はかつてへの懺悔で揺れていた。
　何故もっと早く出来なかったのか、過去を変えたいだなんて思いはしないけど、やりきれなさだけは記憶と共に残っていた。

　沈黙がある、私が語った道筋の意味を考え込んでいるのか。
　かけられる言葉はなく、代わりに伸びた手が私を包んだ。
　飲んだ吐息が腕の中で小さく溢れる。
　肩を抱く体温は、私が触れたことのない他人のものだった。

「私を止めますか」

　止めない、という返事が来て一息をつく。
　イリヤさんの僅かな逡巡の挙句、頭に手を当てられて引き寄せられた。
　顔が彼の胸に触れ、頬に沿う指でくっつけられる。
　なすがままにされていると、言葉をなくした空間が鼓動の音を引き立てた。
　眠気を誘うまどろみを覚えながら、繰り返し響くそれに耳を傾ける。

　数秒か数分か、さして長くない時間を挟んで、体を起こそうとすると物言いたげな腕が私を引き止めた。
　もう少し休んだ方がいいのだという言葉に苦笑を漏らすと、ではもう暫くだけ、と今度は胸に顔を埋める。
　子供のような仕草が意外だったのか、それでもイリヤさんは抱えるようにして胸に抱いてくれた。

　腕に遮られて外なんて見える筈もない。
　時間すら切り離されたような錯覚の中、ただイリヤさんの指だけがひたすら私を癒す。
　鬱血した場所を整え、魔力の流れを元に戻し、少しでも痛みを緩和させようとする。
　暫くしてイリヤさんの腕がテーブルの方に伸びた、何事かと顔を上げるために少し距離を開けると、手にマグカップをもたせられる。

　……今回はココアを用意したのだと彼は言う。
　甘い香りのするそれに、気が抜けたような笑みを漏らし、こぼすといけないから、って小さく言い訳をして背を向けた形で座り直す。
　腕に守られたまま、口にした飲み物は、以前飲んだものよりひたすら甘かった。
　ひたすらこくこくしていると、私の横からイリヤさんの腕が伸び、これを浮かべるのだとマシュマロを放り込まれる。
　首をかしげながら口にしようとすると、もうちょっと待って、と制止が飛んだ。
　言われるまま暫くの間マシュマロを見つめ、少し柔らかくなったのを見てもう一度視線を注ぐと、いいよと頷きが返される。

　……甘い。

　残念ながら私の語彙はそれを形容する言葉を持たなかったけど、漠然というのなら、これはきっとささやかな楽しみ方なのだろう。

　アトリエを辞する寸前、少し躊躇いがちにも、また来てくれていいのだとイリヤさんは声をかけてくれた。
　はい、と微笑んで頷く。
　いつもこんな大怪我をしている訳ではないのだと思いだしたように注釈し、私が危なっかしいなんて思わないように、って念を押した。

　……うん、別に毎回こんな大怪我をしている訳ではないのだけれど。
　厄介事はそこそこの頻度で降ってくるのであった。

　だから。

　◆

『貴女……！　どうしてここに！？　いえ、それより怪我は大丈夫なんですか……！？』
『……。問題ありません、少なくともフィリーディス君が思っているよりは元気ですよ』

　ほら、やっぱりこうなってしまう。
　その日の内に消耗しただなんて流石に苦笑しか出てこない、やった事に後悔なんてないのだけれど。