ENo.431 阿柴いるか

【やっとイッちゃん風邪っぴき編の締め】

「ただいま」

　パナド兄さんを途中まで見送りに出てから宿に戻ると、イッちゃんはまだベッドの上に体
を起こしていた。西日を向こうから浴びて、全身に暗く影が落ちている。でも、輪郭は金色
でなぞられて、ベッド際の窓枠を額縁に見立てた一枚の絵、のように感じた。普段はぼーっ
としてるくせに、ただ静かに、そうしている一瞬が時々綺麗なんだ、この人は。場所と姿勢
を入れ替えて、あたしがそうしてみたってサマにならないだろうから、何だかズルイと思っ
てしまう。

「おかえりなさい、……いるかちゃん？」

　振り向いたイッちゃんの目尻で、きらりと何かが光る。
　こっちの方はそう眩しくもないのに目を細くして、あたしが手にしたものに気づいて首を
傾げている。

「ごめん。もしかして寝てた？」

　けして嫌いな訳じゃないんだけど、こういうときに金属の足は不便だ。体調を崩している
身からしたら多少鬱陶しいと思えるかもしれない足音に気をつけて、ベッドに歩み寄る。爪
先で椅子を引っ掛けて腰を下ろす。そうして手の中のもの二つ――左手の林檎に、右手のナ
イフを添える。
　あんまり刃を立て過ぎないようにするんだ。コツ、みたいなものは覚えたつもり、なんだ
けど。

「ちょっとうとうとしていただけよ、それより……さっきも食べたでしょう？」

「イッちゃんが食ってないでしょう」

　口調を真似て返す。さっき剥いてもらった林檎は、結局あたしとパナドの奴で食べてしま
った。どたばたしてる間に勧めてくるもんだから、つい口を開けちゃうあたしも悪いんだけ
ど。何でこの人は風邪で寝込んでるときまで他人の世話を焼きたがるのか。
　まだ、文字も読めない頃のあたしを憶えていて、それを引きずってるから、なんじゃない
かと思う。林檎を剥く手元に注がれる視線が妙にそわついていて、こっちまで集中を欠いて
しまいそうだ。

――私達がいるここもお星様の一つでね。

　耳の奥の方で、小さな女の子の声がした。今でも聞き馴染みのある、でもそれよりずっと
幼い声だった。

　＊　＊　＊

　気づけば、またあたしは薄くて平べったい布団の上にいた。立て続けに癇癪を起こしたせ
いか、頭が熱でやられてしまうのも早かったのだろう。そしてタチの悪いことに、両腕も両
足も重い。何かヤダな、と思った。イッちゃんと初めて会った施設での、ある日の記憶だ。

――こんな風に、くるくるって回っているのよ。

　雲の中で聞くように、ぼんやりと霞んだ声が耳の奥で木霊する。実際に雲の中へ頭を突っ
込んでみたことはなかったけれど、そのときは、そう、あの白くてふわふわしたものの中で
人の声を聞けば、こんな風なんだろうなと思ったのだ。

「うそだ」

　声を出してみたら、そこよりも前にいた施設のおんぼろスピーカーよりも酷く声がしゃが
れて、罅割れていた。短い言葉じゃなかったら、あたし自身も何を言ったかさえ聞き取れな
い気がする。

「ほんとよ」

「あんなちっこくないもん」

　仰向けのまま、視線の先に広がる天井を見るともなしに見ていた。もちろんそこに星空は
ないけど、思い出すことぐらいは出来る。あたしの駆け回る地面があんなにも小さな星だと
したら、片足だって乗せていられないじゃないか。
　ばかだと思って、ばかにして。不満そうに口を尖らせて、声のした方を見る。
　イッちゃんがいた。手に赤くて丸いものと、細くて冷たそうに光るものを持っている。赤
い方がくるくる回って、色を落として白い中身を見せていた。

「小さく見えるのは、遠くにあるからなのよ」

「まわってたら、目もまわるもん」

「そうね。不思議ね」

　お行儀よく座ったイッちゃんの膝元に白いものが添えられていた。紺色のスカートに映え
て、淡く光を放っているように見える。それは、あたしが庭の花壇から引っこ抜いてきたス
ノードロップの花だった。
　反対側を見たら、泥の足跡が点々と床を汚していた。足跡といっても、不格好な楕円の形
をしたものだ。布団の横に不出来な木製の両足が二本、転がっている。向こう側の窓はすっ
かり暗くなっていて、枕元の小さな照明があたし達の周囲を照らしていた。随分と寝てたん
だ。そのときになってやっと、色々と思い出せた。

「いるかちゃん」

「なに」

　振り向いたら、唇に冷たいものが当たる。すっかり裸にされた、赤くて丸いやつ。六つ切
りの林檎だ。花弁の形をしたガラスのお皿に五つ、一つをイッちゃんが摘んで、あたしの口
に添えている。

「あーん」

　枕の傍の明かりが眩しくて、寝て起きたばかりの目に痛い。瞼をしっかり持ち上げられて
いないから、イッちゃんがどんな顔をしているのかも見えない。気を失う前の、怯えた様子
が思い浮かんだ。また、頭の奥がざわざわと五月蝿くなってくる。

「あーん」

　あたしが口を開けないでいると、同じ言葉を繰り返す。絵本を読んでくれるときと同じ、
聞いてると妙に擽ったくて、だけど不思議と落ち着く声だ。

「……あーん」

　口を開けたら、林檎の端っこが前歯に当たる。思った以上に言うことを聞かない顎を動か
して、ゆっくりと口を閉じた。しゃく。頭の奥でそんな音がして、甘さと、ほんの少しの酸
っぱさが舌の上で広がった。何時もなら一飲みにしてしまえる小さな欠片を、時間を掛けて
噛み潰す。

「おいしい？」

「……うん」

　ごめんね、が言えなかった。何となく、謝らないといけない気がした。何を謝ったらいい
のか、それが解らなかった。言いたくて言えない言葉を押し出そうと口を開けたら、食べか
けの林檎が添えられる。だから、あたしは何も言わずに口を閉じた。甘酸っぱくて泣きたく
なった。

「ゆっくりでいいからね」

　もたもたと租借するあたしを見て、顔の見えないイッちゃんが囁いた。何だか許された気
がして、また口を開ける。言えない言葉の代わりに林檎を食べた。
　そうして、それからの何日かを何時間かの刻みで、あたしは寝たり起きたりを繰り返した。
目を閉じて、すっと意識がどこかへ落ちていく瞬間、イッちゃんの声を聞きながら。重たい
瞼を持ち上げて、まだ目覚めに慣れない瞳を動かすと、霞む視界にぼんやりと人影が映る。
そんなことを繰り返す間に、日によって色の違うスカートの上でスノードロップの花は萎れ
ていって、そして何時だって、右手がほんのりと温かかった。

　＊　＊　＊

「こんなはずじゃあなかった」

　手の中のサイコロみたいなものを見て、あたしは堪らずぼやいた。手首の背でサングラス
を持ち上げてみても、それは不細工な形のままで変わらない。皿の上には、でろでろ、なん
て擬音がぴったり合いそうな感じで、パンの耳みたいに分厚い林檎の皮がのたくっている。

「さくらんぼみたいになっちゃったけど……食う？」

　あたしがナイフで格闘している間に、起きているのが辛くなったのか。ベッドに背を預け
たイッちゃんが、口元に手を添えながら、くすくすと笑った。そして、小さく咳き込んだ。

「いただきます。……あーん」

「あーん」

　茎の方を摘んでぶらぶらさせて、そんなものを食べさせていると、小鳥に餌をやってるよ
うな気分だ。おかしい。こんなはずじゃあ、なかったんだ。どうも上手くいかなくて、あた
しはきっと不貞腐れた顔をしてたんだろう。

「美味しいわ。ありがとう」

「どういたしまして」

　どうにも締まらない。そこまで不器用な方じゃなかったと思うんだけど。
　あたしがイッちゃんの為にと思ってする何かは、決まってどれも上手くいかないんだ。教
会の掃除も、倉庫整頓も――飛び出して振り上げた拳も、花壇で積んだ白い花も、仲直りの
言葉も――林檎の皮を剥くことだって、決まってどこかでヘマをする。
　そろそろ、せめて一つぐらいは、ちゃんとやり遂げたっていい気がするんだ。

「……ごめんね」

「そうね。今度から、食べ物は大事に扱いましょう」

　そうじゃあ、ないんだけどなぁ。

【そして今回分がまたしてもURLという】

http://sheep.me.land.to/6may/13ddd.html