ENo.395 ブリジット・ハイデルベルク

■Intermission

そこは、広い広い森の中でした。
背の高い木々がどこまでも並び、森の中に日差しは届かず、暗く、黒い森でした。
僅かな木漏れ日の中では大きな羊歯植物が鬱蒼と葉を拡げ、その隙間では小さな蘭が花を咲かせています。

そんな木々の合間を縫うように、一本の細い道が
ありました。
今にも周囲の植物たちに呑み込まれてしまいそうなその道は、頼りなく森の奥へと続いて行き、
その先に、突然木々が途切れ、切り取られたかのように蒼い空の広がる、人工的な空間が広がっていました。
鬱蒼とした森の中に明るい陽光が差し込み、突如として現れたオアシスにも思えるような場所でしたが、
そこは、余所者を拒むかのような、とても高く鋭い、まるで槍を並べたかのような鋼鉄の柵で囲まれていました。
前面には煉瓦を組んで築かれた門柱が聳え、とても重そうな門扉が、今はしっかりと閉じられています。

門扉は堅く閉ざされていましたが、剣先フェンスの隙間から、その中の様子が覗えます。
柵の中は、無秩序に木々の乱立する森の中とは違い、細やかな手入れの施された庭木に囲まれ、
設けられた花壇や鉢には色とりどりの花が咲き乱れ、まさに庭園といった様相です。
その庭園のさらに奥、門扉から続く煉瓦で装飾された通路の先には、古い洋館がありました。
それはとても古い洋館でしたが、まるで今でも人が住んでいるかのように、どこにも傷みは見られません。

庭園の片隅、洋館から通じる一室に、一面ガラス張りの部屋がありました。
その部屋の中は、庭園とは違った趣の木々が思い思いに枝を伸ばし、その様子はまるで
部屋の中に森が広がっているかのようでもありましたが、中には湧水を引いて煉瓦で組まれた人工的な泉や、
そこに並べられたたくさんの鉢などが見え、ここが誰かの手によって創られた箱庭なのだということを示しています。

その泉の辺、煉瓦の縁に、一人の小さな妖精が腰掛けていました。
傍らには彼女の身の丈よりも大きな鋏があります。どうやら彼女がこの温室の管理者のようです。
ふと、彼女はそこにある鉢に目を遣ります。
枝や棚から空中に吊り下げられたもの、泉の中の台に置かれ、半分水に沈んでいるもの。
それらは総じて色鮮やかな筒状の器官を持っていたり、きらきらと宝石のような雫に濡れ、
それらは総じて身体の小さな彼女ら妖精には、致命的な牙や触手、毒を持った捕食系植物でした。

彼女はそんなことを気にする様子もなく、その植物に手を伸ばします。
そして、鋏を使い、枯葉や機能しなくなった古い捕食器官、成長を阻害する脇芽などを摘み取っていきます。
まるで普通の植物の手入れをするかのように、淡々とこなしていきますが、
これらの植物に対する知識を持たない妖精が同じようにしたら、それはもう大変なことになってしまうかもしれません。
やがて、彼女が剪定を終えると、雑然としていた鉢の中は見違えるようにきれいになっていました。

「そのほうが、日当たりも風当たりもいいでしょう？」

切り取った枯葉を片付けたり、脇芽を泉の水に活けたりしながら、彼女は植物に語りかけます。
その声は、やや感情がこもっていないようにも聞こえますが……。
片付けをしていると、ふと、とある鉢が彼女の目に留まります。

「そういえば、あの子の手入れは、したことがなかったっけ。」

その言葉通り、少し離れた場所に置かれたそれは、自身の枯葉にうずもれるようにして
醜く裂けた柘榴のような口を覗かせています。
彼女は思い立ったように、鋏を手にして、その植物へと手をかけようとして、

「その子には、触らないほうがいいですよ。」

突然後ろから声を掛けられ、驚いて振り返ります。
振り返った先には、青白い髪の妖精が立っていました。

「その子は私よりも前からここにいたんですけどね……。
　未だに、友達にはなれなくって。」

そう言って、黒く大きな鋏を持ち出すと、その植物の枯葉を切り取るように差し伸べます。
すると、その植物は弾け飛ぶかのような速さで、あの柘榴のような口で鋏に噛み付いてきたのです。
ガチガチと、到底植物の立てるものとは思えない硬質な音が鳴ります。
青白い髪の妖精はなんとかその口から鋏を振りほどきますが、
黒い鋏はもう二度と使うことはできないほどに歪んでしまっているのでした。

「こんな調子ですから、もうずっとお手入れもできないし、
　植え替えてあげることも、動かすことすらできないんです。」

　+ + +

そんなことがあってから、どれくらいの月日が流れたでしょうか。。
世話はできないと言われつつも、彼女はその植物のことが気になっていました。
いくら世話ができないと言っても、あの妖精の話が本当なら、
あの狭い鉢の中で、もう百年以上も手入れされていないことになります。

「そんなの、可哀想……。」

そう呟く彼女でしたが、できることは何もありませんでした。
今日もいつものように、他の植物たちの手入れを終えると、”彼”の元へと立ち寄りました。
彼としばらく一緒にいてわかったことは、鋏を置けば安心するのか、近寄っても平気だということ。
ただ、近付いたところで何かできるわけではないのですが……。
しかし、彼女は彼の植わった鉢を見て、あることに気付きます。

「あれは……、ひび割れ……？」

鉢に入った微かな亀裂に気付くと、彼女は水に入って彼の鉢へと近付き、手をかけます。
突然近付いてきた彼女を排除しようと、彼は触手のような蔦で彼女の細い身体を絞め付けます。

「大丈夫だから、落ち着いて……。」

そう言い聞かせながら、彼女は鉢にかけた手に力を込め続けます。
鉢が軋みを上げると、彼もまた絞め上げる力を一層強めます。
絞められた彼女の身体から血が滲み始めますが、それでも彼女は力を込め続け、
やがて、がちゃ、と音を立てて鉢が壊れました。
鉢を壊された彼は、一気に力が抜けたように、彼女の身体を開放します。
割れた鉢の中を見た彼女は、やっぱり、と呟きます。
その鉢の中には、土はほとんど入っておらず、黒く太い根が大量に渦巻いていたのでした。

「こんなになって、苦しかったよね……、もう、大丈夫だから……。」

そう言って彼女は慈しむように、優しくその複雑に絡まり合った根を解いていくのでした。
彼は抵抗を止め、彼女に全て身を任せているようにも見えます。

　+ + +

再び目覚めたとき、彼は自分の身体が今までとは比べ物にならないほどに
大きな鉢に植えられていることに気付きました。
その傍らでは、ボロボロに傷ついた、小さな身体の妖精が眠っています。

―――私は、こんな小さな身体の妖精によって救われたのか。

やがて、目を覚ました妖精は、何の躊躇いもなく、その醜く裂けた口に触れ、

「もう、大丈夫だから。」

そう、優しく囁くのでした。

―――
今まで全てを拒絶してきた私だが、そんな私をあの戒めから解放してくれた。
これからは、彼女のことだけは、信じてみるのもいいかもしれない。

ふと、私は鉢の側に置かれた古い学名札に気付く。
……ああ、そうだ。確か、こんな私にも名前があったのだということを思い出す。

私の名前は、そう。確か―――