ENo.2519 アシュラフ・イヴン・ズィヤード

悪魔は嗤う。私の愛した者の姿で。

――ワタクシは神の定めし運命の喜劇を外から眺めし者、悪魔でございますれば。
この世で起きた出来事は全て拝見済みでございます。その一部を切り取り演じて見せたまでのこと……。
　

――目的は、と問われれば、その答えはひとつしかございません。
それはワタクシ共悪魔の悲願であり、存在意義そのものと言っても過言ではございません。
それは人々の魂を”神の定めし舞台”から解放すること。”運命”から逸脱させること、と言い換えても構いません。

　

――この世は神の創りたもうた喜劇の”舞台”。
人々は運命という”台本”を手に、舞台の上で泣き笑い生き死んでゆく無垢なる”人形”。

――疑問を抱いたことはございませんか？なぜ奴隷商の血筋に生まれたのか。
なぜあの時ふたりは出会ったのか。なぜ最愛の女性は壊れ果てなければならなかったのか。

――すべては”そうあれかし”と記された”運命”という台本を順調に廻すため。
あの時あの場所で、貴方様の最愛は朽ち果てなければならなかったから、でございます。

　眼前の女……いまや悪意を隠すことすらせず嗤うその悪魔は、実に楽しげにそう語ってみせた。
　女の目にはまるでこれから屠殺される家畜を哀れむかのような、それでいて何かを慈しむかのような光が宿っている。
　私は女の言うことを理解できず、ただただ立ち尽くす。
　すべてが運命だった？私も、私の愛した妻も、私の娘も、その全てが運命に操られていたと、そう言うのか。
　この女は何を言っている。理解できない。理解したくもない。
　仮に理解できたとして、そうなったら、なにか大切なものを失ってしまうそんな気すら感じられる。
　だが……

　「その少女の名はニーネ……アシュラフとアニエスの一人娘」

「翼人の血を受け継いだ少女が、母親と同じ道を辿るのは想像に難くなく……」

　女の口から少女の名がこぼれ落ちる。
　ニーネ。私と妻との間に授かった赤子の名。私が愛し、妻が愛したこの世でたった一人の娘の名。
　私の瞳が三度驚愕に見開かれる。女の言葉は最早常軌を逸していた。
　なぜだ。何故知っている？何故、私の過去を、妻を、娘の名を……
　
　……いや、それよりも。

　「母親と同じ道を辿る」
　その女は、確かにそう言った。

「アシュラフ様。ワタクシは貴方様を解放したい」

　悪寒。
　背筋を駆け上る言いがたい悪寒。
　本能が告げている。この女はきっと嘘を言っていない。

「――運命の輪廻から逸脱し、この悲劇の終焉を異なる結果で結んでいただく、その手助けをしたい」

　同じ道を辿る……それは即ち、失われるということ。
　夢の中の彼女が笑う。笑いながら、少しずつ狂ってゆく。

「――それが舞台の異端者たる”道化師”こと悪魔としての存在意義に他なりません」

　また、繰り返されるというのか。
　それが運命だというのか。
　そうして私は私の知らないところで、またひとつ愛するものを失うというのか。
　そうやって私は――！
　

　フラッシュバック。
　脳の裏側にこびりついたあの日の光景。
　私は私の愛するものを、自らの両手でくびり殺した。
　
　フラッシュバック。
　狂気と抵抗の日々。
　私は怖かった。これ以上愛するものを失いたくなかった。
　少しずつ少しずつ壊れていく妻の姿が私にはあまりにも耐えがたく、それ故に私は私を守るために全てを終わりにした。

　フラッシュバック。
　否定の地アンジニティ。荒れ果てた砂漠を駱駝と共に歩き続ける。
　私は逃げた。途方もない罪の意識を自らの殻の内側に封じ込め、贖罪という名の旅によってそれが癒されていくと信じて思い込んだ。
　
　フラッシュバック。
　行き止まり。
　
　そうとも、私は行き詰ることを望んでいた。
　私は私がこの先に進むことを否定し、そうして立ち止まることで私という人格を守ろうとした。
　私には過去しかない。違う。それは私が私に過去と共に死ねと望んでいたからだ。
　私は未来を、今を見たくなかった。私の隣にあるものを、目の前にあるものを、それら全てを過去への贖罪という言葉で包んで砂漠の砂音と共に聞き流した。

　私は私を殻に閉じ込めた。
　私という脆弱な魂を守るために、私の愚かな罪と共に、私を過去という殻に閉じ込めた。
　過去を見続けている限り、私にはなにもない。
　そう、なにもない。
　目の前で起こる出来事は全て美しい過去から伸びた一筋の影法師に過ぎず、そうして私は過去という殻の内側から、影法師が贖罪を求めて渡り歩く様を無感動に眺め続けている。
　私は許しを求めていない？違う。許される自分を想像できないだけだ。なにをすれば許されるのか、どうすればこの罪が償えるのか、どうすればこの途方もない罪悪感から逃れられるのか想像できないだけだ。
　私は支離滅裂だ。私は許しを求めている。私は許しを求めていない。なにもかもがぐちゃぐちゃで、なにもかもがわりきれていない。
　だから私は過去へ逃げる。自分の殻へ閉じこもり、殻の内側から全てを諦めた瞳で外を見続ける。
　
　そうして。

　そうして私は私の知らないところで、またひとつ愛するものを失うというのか。
　失われていく最愛のものを、なにもせずにただ惰性の日々の中に取り落としてゆくというのか。
　最愛の娘を。私と妻の愛の証を。妻が生きた最後の証を。私と彼女のあの唄の行方を。祈るように過ごしたあの晩のことを、喜びに満ちたあの朝のことを、あの家で過ごした美しい日々を、三人で見上げたあの夕焼けの空を、庭に咲いた一輪の花を、空に舞う鳥たちの声を、壁に這う蔦の記憶を、ゆりかごが僅かに軋みを上げる音を、初めて目を開いたあの日のことを、彼女が残した最後の灯火を、私の世界の全てを、私に残された命の意味を。

　私は、このまま全て失うというのか。
　

　
　視線をあげれば、女があいも変わらず歪な笑顔で佇んでいる。
　私は女の、悪魔の瞳をじっと見据える。悪魔が目を細めて見つめ返し、口を開いた。

「アシュラフ様が一度その頭を縦に振れば、我が無尽蔵の魔力をもっていかなる助力もいたしましょう」

「運命を覆しますか？奴隷として舞台を演じきりますか？さぁ、アシュラフ様。ご決断を。」

　頭の中で、なにかがはじける音がした。