ENo.150 ダーク＝ブラッドペイン

『闇夜に―――――と血族の――』

　一瞬の出来事に何が起きたのか把握出来なかった。

　沸騰したばかりの湯を掛けられたような熱さと、凍てつくような寒気、そして……
鉛のように動かない身体と全身を走る激痛。目は暗く霞み、耳はよく聞こえない。
よく判らない低音だけが重く響いている。側にいる筈の博士に声をかけているが、
耳は私自身の声を聞き取ろうとせず、私自身言葉を発しているのかすら判らなかった。

　感覚が無くなっていた。暗く霞む視界は私が目を閉ざしたのか、それとも
視界が闇に閉ざされていたのか、博士らしき人物を捉えて闇に閉ざされた。

　事態は想定よりも……深刻だった。
　しかし、私は淡々と現状を受け入れようとしていた。

　私の行動は矛盾している。それは判っている。
　最近の私は自棄になっていたが、諦観していたわけではなかった。
　ただ、何もかもどうでもよかった。
　遅かれ早かれ何れ下すであろう決断が想定外の事で早まっただけだ。

「……よかれと思っていたことが、ずっとお前を苦しめてきたのだな」
　身体の感覚はほぼ無かった。辛うじて博士の言葉だけは聞き取ることが出来た。
「すまなかった。未だ忘れていなかったとは……」

　辛い思いをするのは常に――ばかりだ。
　いっそ――だったならと、願う。
　私は……

「せめてお前だけでも、この『核(コア)』で……蘇生させてみせる」

　涙か。血か。
　霞む視界は暗闇と光に消える。
　博士の言葉を最後に、私の意識は途切れた。

　私はいっそ――だったならと、強く願った。

　　　　　〜☆〜

　ミラージュの日付『PC2268.07.15』――

　何かが焼け焦げるような匂いと、野鳥の声と聞き慣れた複数の声がする。
　聞き慣れた複数の声……？
　私は目を開けた。

「……ここは？」
　私は携帯用野外ロールシート(ミラージュ製の携帯用アウトドアグッズ)の上で
携帯用毛布を掛けられて寝かされていた。
　眠る前の記憶が曖昧で、眠った記憶がなかった。頭痛がする。
「お早う。体調はどうだい？」
　と、声をかけられて、私は普通に返事を返した。誰かは判らないが、
少なくとも敵ではないのだろう。
「……お早う御座います。体調は普段通りだと思いますが、何が何だか判りませんね」
　周囲に視線を巡らせ、声をかけた人物の方に向く。
　街道をそれた平原で見覚えのある青年が焚き火をしていた。その周りで
アークと白い子犬が戯れている。
「貴方は……」
　青年は呆れたように溜息を吐き、焚き火から焼けた果実を取り出した。
「全く……異世界の方は無茶ばかりする。慣れぬ世界では無茶をするなと
きつく言っただろう」
　金の長い髪に色白の肌、細長い青の瞳に尖った耳、フレームの無い眼鏡をかけた
エルフの青年……イザルファだった。狩猟生活に飽きて、山里から下界に降りてきた
医者の青年だ。
「君の従者のアークが、君を抱えて、物凄い早さで街道を駆けていたので驚いたぞ」
　と、彼は見覚えのある街道を指さし、街道をなぞるように指を動かせた。
「偶々、私とすれ違ったのでね。君の怪我を診させてもらったんだ」
「……怪我……？」
　彼の言葉で徐々に記憶が蘇ってきた。私は『獣(便宜上そう名付けた)』と
戦闘をしていたのだ。その戦闘の途中から覚えていない。恐らく戦闘中に
意識を無くしたのだろう。
「そうか。私は獣と戦って……倒れたんだ」
　戦闘の出来ないアークは意識のない私を抱えて逃げたのだ。
「先生、助けて戴いて、有り難う御座います」
「いえいえ。それより、お腹がすいただろう。焼いただけの簡単なものだが、
朝食にしよう。食べられるかい？」
　お腹が小さく鳴っていた。恥ずかしくなって、私は視線を逸らせた。
「……はい。頂きます」
「ほら、君の分だ」
　笑顔で彼が差し出したのは『薄緑色の悪魔(キュウリ)』を焼いたものだった。

「……軽く炙っただけなんだけど、涙を流す程喜んで食べてくれるとは
思いもしなかった。君の主はキュウリが大好物らしいな」
　イザルファは焚き火を片付けながら言った。それにアークが答える。
「うむ。キュウリは我が主の世界にはない。かなり珍しい食感と味を持つ食物だ。
我が主はキュウリの旨さと食感に感動したのだろう」
　と、アークはダークが寝たのをいいことに嘘を吐くのだった。
「ところで、炙ったキュウリとは美味しいのか？　キュウリは主にサラダ等の
生の料理に使うものと、ワタシの知識にあるのだが？」
「料理は不得意でね。食べ物だし、食えなくはないだろう。味は保証出来ないが」
「……成分の変化的に不味いと見た」
　アークの目が光った。
「へ？」
「味は問わん。我が主が食べられるものであればよい。キュウリなら尚更よい。
主の食事を頼む。食えないものだったら、貴方を切り捨てるぞ」
　と、アークはしろわんを頭に乗せ、剣の玩具に手を掛けた。

　身嗜みの化粧が悪いとは言わないよ。でも、髪を伸ばしてさ……女みたいだ。
というかさ、元々の外見が女っぽいよ。お前。
　それが、私の友人の……いや、大体の人間の反応だ。もう慣れてしまったが、
私は男らしく見られることがない。酷い相手になると気持ち悪いと面と向かって
言われたこともある。
　別に女装がしたい訳でも、女になりたい訳ではない。身嗜みと美に気を
遣っているだけの話だ。男だって容姿は気にするし、格好付けたいのだ。
　男が美を追究するのは悪いことなのか。否。女だけ美が許されるなんてあり得ない。
不公平ではないか。

　掌に収まった金色の小さな筒。蓋を取って、底を回す。艶やかな深紅の口紅が
姿を現せた。まだ未使用の、綺麗なままの口紅だ。
　アンタにはこの色が似合うわよ。少しくらい化粧してみなさいよ。きっと綺麗よ。
　研究室に籠もりっきりの私は化粧もろくにせず、最低限の身嗜みさえ整えていれば
それでよかった。そんな私を見兼ねた女の友人、ストレッラがプレゼントして
くれたものだ。
　何だか私には勿体なくて、封を切っただけで使えなかった。私には化粧が
似合わないと思ったのだ。
　化粧をするようになった今もこの口紅は使用しなかった。いや、使用出来なくなった。
　何故なら――

「君は怪我人だ。今は休め。それに、夜更かしは美容にも悪い」
　不意に声を掛けられて大切な口紅を落としそうになった。イザルファだ。
いつの間にか起きていたらしい。アークはしろわんを膝に乗せて焚き火を見つめていた。
「その綺麗な物は何だい？　この辺りでは見ない物だね？」
　口紅だが、アースの中世世界に似たこの世界ではまだ見ぬ形の口紅なのだろう。
「私の世界の……一種の魔除けですよ。強力な魔と呼ばれる存在に……例えば
道を外した魔女や魔族に遭遇しないためのね」
　適当に誤魔化して、私は口紅をポーチに収納した。
「魔除けの艶が消えれば周囲に魔が集まりやすい。今は魔除けの艶がいい。暫くは
安全でしょう」
「そう。魔除けというのは装飾品とばかり思っていたが、珍しい形の魔除けも
あるんだな」
「すみません。起こしてしまって。早く寝ましょう」
「ああ？　お休み」
　私は横になった。
「イザルファさん」
「ん？」
「私は……女に見えます？」
「いや？　君は男だろう。私には男にしか見えないが？」
「……ですよね。私は男ですから」
「うん？　君は妙なことを聞くんだな」
「……気にしないで下さい。お休みなさい」
　私は目を閉じた。
　容姿がどうであれ、私は男に違いない。今更、何を気に病んでいるんだか。