ENo.2084 夜灯

【今日森に行った際にちょうど見ごろになりそうな桜を見かけた。良かったら一緒に花見でもどうだろうか】

森の中で見事な桜の樹を見つけた翌日、そう伝言を吹き込んで、蒼く揺らめく狐火を樺煉の元へと送リ出す。
この世界で目覚めた当初は一緒に花を愛でたいと思えるような特別な存在ができるなどとは思いもしなかったのに――不思議なものだ。

前よりも焔での伝言のやり取りが早く正確に出来る様になったのは、樺煉の幻術の腕が上達しているからだろう。
送ってからそう時間が経たないうちに、彼女から了承の返事の焔が返ってくる。
彼女のことだから毎日真面目に練習を続けているのだろうなと微笑ましく思いながら、続けて日時と待ち合わせ場所を吹き込み、もう一度蒼い焔を送り返した。

―――そして約束した当日の焔の月16日目のよく晴れた朝。

長く寒かった冬もようやく終わりを告げ、殺伐としたこの世界にもあちこちに春の兆しが訪れ始めていた。
最近遠く離れた東の果てに街が存在するという情報が新たに得られたが、世界の壁の崩壊については相変わらず謎のままで。
しかし以前に比べると、とにかく一刻も早くこの世界を脱出しようと焦る気持ちはかなり薄らいできていた。
同時に世界のすべてを呪うような闇色の感情に囚われることも随分と減り。

黒晶はそんな私を見て「フレアの影響で変わった」と言う。

……そうなのだろうか？
樺煉と揃いの石で作った左手の腕輪に無意識のうちに触れながら、己の感情の変化について考えてみる。
確かに前よりは随分と黒い思いに囚われることは少なくなったとはいえ、果たしてそう簡単に本来の性質とは変わるものなのだろうか。

『本当の姿を知った位で動じない程度には……この気持ちは嘘じゃないもの』
本来の幻妖狐姿を初めて見せた時、樺煉は両腕を私の首に回すときつく抱き締めてそう言った。

『記憶が無くて不安なのね……でもその時はちょっと綺麗な毛皮が焦げるかもしれないけれど、熱い思いをさせる事になっても正気に戻すわ……私の事を忘れたりしないように。アナタがアナタを見失わないように』

―――本当にそうならば、どんなにか良いだろう。このまま平穏な日々が過ぎてゆくならば。
そう思いながら朝食の後片付けをしていたウルリヒに夜まで出かけてくると言い残し、私は待ち合わせ場所に指定したドネスクの町外れへと向かった。

「……こんにちは。夜灯さん」
「――どうしたんだ。何かあったのか」

しかし時間通り待ち合わせ場所に弁当の包みを持って現れた今日の彼女は、何故かしょんぼりとしていた。
少なくとも彼女の顔を見た途端、思わず開口一番そう尋ねてしまう程には。

「どこか身体の具合でも？それならまた日を改めて別の日に――」
「…違うの」
私が言いかけたのに樺煉が言葉を遮って否定し、俯くと深い溜息をつき。
「……ではどうしたのだ」
「実は羽兎が―――」

彼女の顔を覗き込むようにして尋ねると、彼女はぽつぽつと語り始めた。
どうやら先日、探索途中の森の中で相方である羽兎とはぐれて離ればなれになってしまったらしい。

「それは心配だな…では今日は花見より二人で彼女を探しに行った方がいいのではないか」
「あ、羽兎が無事だっていう確認取れたの。もう私の妖魔獣を使いにやって合流日時と地点は決めてあるし、大丈夫」
心配してくれてありがとう、と言うと樺煉は力ない笑顔を作り。

「そんなわけだから今日これからお花見に行くのは問題ないわ。でもこの辺で花が咲いてそうなところなんてあったかしら…？」
小首を傾げて辺りを見回す彼女に、遠くの森を指差して見せ。
「いや、実は場所はこの付近ではなく、ここから暫く行った先の森の中になる」
指された方角を見て樺煉が驚いたように目を見開いた。

「あんなに遠く…？ここからだと結構距離がありそうだけど…陽が高いうちに辿り付けるかしら」
「人の足では難しいだろうな。だが―――」
至極最もな彼女の問いに、私は変化の呪文を唱えて本来の姿である幻妖狐へと姿を変えてみせた。
「私の背に乗っていけば小一時間もしないうちに着く」
「背に乗るって……私が？！」
「他に誰がいるのだ？」

何度も目を瞬いて驚いているのにくすりと微笑んで白く大きな狐尾をふぁさりと振り。
彼女が乗りやすいようにと身体を地面に伏せた。
最初は戸惑っていた彼女もどうやら冗談ではない様子に覚悟を決め、ぎこちない動作で私の背によじ登り跨って。
「あまりスピードを出さないよう気をつけるが、振り落とされぬようしっかり掴まっているといい」
「……わかったわ」
「では行くぞ」

弁当の包みをしっかりと抱えて、彼女がぎゅっと私の毛皮に掴まったのを確認してから、ふわりとゆっくり走り出す。
できるだけ揺れぬよう、走るというよりは空を飛ぶように軽やかに。
最初は酷く緊張していた彼女も、暫くすると大丈夫そうな様子に安心したのか、私の背中に伏せてしがみつくようにしていた身体を恐る恐る起こして辺りを見渡し始め。

「―――素敵だわ。まるで雲にでも乗っているみたい…！」

飛び去る風景に目を見張りながら嬉しそうに樺煉がはしゃぎだす。
もう新緑が芽吹いているのねとか、あそこに咲いている綺麗な赤い花はなんというのかしらなどと、目に入ったものの感想を次々に述べながら。
先程のしょんぼりした様子から一時的にでも彼女が元気になったことを私は嬉しく思いながら、他愛無い会話を交わしつつ森の中を駆け抜けていった。
キラキラと眩しい木漏れ日が射す午前の森の中の散歩は、アンジニティにいるとは思えないほど平和で穏やかで。

慎重にルートを選んだせいもあって、途中危険な生物に出くわすこともなく、予定通り昼前には目的の桜の樹の元へと着くことができた。

▽▽▽　【1645さんの日記を挟んで以下後半】　▽▽▽

穏やかな午後の時間はあっという間に過ぎ去り。

樺煉が花見の片付けをしてくれている間に、桜の近くの樹に刻んでおいた目印の呪印を消し、一時的に張っておいた結界陣を解く。
たったこれだけの術を行使するのにも今の私では結構妖力を消費してしまうのだな…と心の中で軽く溜息をつきながら。

「こちらの片付けは終わったわ。それじゃ名残り惜しいけど……帰りましょうか」
包みを抱えた樺煉がもう一度桜を見上げながら声を掛けてくる。
「……花びらだらけになってしまったな」
彼女が薄紅の花弁を髪や服に幾つも纏っているのに微笑んで、ひとつずつ手で払っていく。
「あ…ありがとう。夜灯さんも花びらが―――」
「私のは構わない」
照れくさそうに礼を言いながら、今度は私についている花弁を払おうと手を伸ばしかけた彼女の言葉が終わらないうちに幻妖狐へと姿を変える。
そしてぶるんと大きく身を振って花弁を振り落とし。

「さあ帰ろうか」

再び彼女を背に乗せ、傾いた陽の光に染まる桜の樹を後にして走り出す。
恐らくこの桜の樹を見ることはもうないのだろう、と思いながら。

私に乗ることに大分慣れた様子の樺煉を見て、帰りは幾分速度を速めたお陰で陽が沈みきる前に彼女の今夜の野営地へと着く事ができた。
背から彼女を彼女を降ろすと、己を人姿へと変化させる。

「そういえば今日は相方不在なのだったな…」

静まり返った野営地の様子にひとりで大丈夫かと問えば大丈夫、と彼女が笑って答え。
「……ただこの世界に来てからはいつも羽兎が傍にいてくれたから……少し寂しく感じるだけ」
彼女が物憂げに伏せた瞳の、長い睫が頬に陰を落す。
夕暮れに佇むその姿は寂しげで儚げに見えて。

―――ああ、そうか。
そういえば花見の最中に元の世界では昼間に出歩けない分、人気のない深夜に夜桜を見に行ったと言っていた。
恐らくその相手はあの闇色の男であったのだろう。
もうこの世には存在しない、彼女の保護者。
では今夜の樺煉は相方である羽兎の、そしてあの男の不在という二重に寂しい夜を過ごすことになるのか―――

そう思うとなんともいえない気持ちになり。
彼女の腕を取って引き寄せ、その身体を強く抱き締める。

「や、夜灯さん……？」
「もし何かあったら深夜でも私を呼ぶように。樺煉が呼べば神楽鈴がそれを伝えるし、例え眠っていたとしても夢を通して感じ取ることができる。幸い私の野営地からもそう離れていないので、呼ばれたならばすぐに駆け付けよう」
「……わかったわ。ありがとう」

突然のことに戸惑いながらも、樺煉は大人しく私の腕に抱かれたまま礼を言い。
暫くそのままで彼女の温もりを感じた後、ゆっくりと腕を解いた。

「本当に、呼ぶのだぞ」
「…心配性なのね。もう子供じゃないのだから」

そう言って照れ臭そうに微笑んで私の顔を見上げた彼女のその唇に、そっと触れ合うだけの口付けを落とす。

「………！」

今度は絶句して固まってしまった彼女の、その頬がみるみるうちに真っ赤に染まっていき。
ただその場に立ち尽くして見つめ返す彼女に、私は微笑んで別れの挨拶を述べる。

「今日の料理も菓子も美味しかった。また機会があったらどこかへ誘おう。―――ではおやすみ、樺煉」

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恒例の1645さんとの連動日記になります。いつもありがとうございます！