ENo.1627 比売卑流呼

「狂い咲き桜て何や、それ。新しい化けモンか何かか。何落とすんや」
「何でもかんでも倒そうとすんな。戦利品にすんな」
　じと目のメイドに呆れられる。
　中身は男とか自称する、愉快な同行者だ。
【ここ、です】
「ん？」
　掲げられたホワイトボードに目を向ける。
　支えるのは触手が数本、これもまた個性のある同行者だ。
　どちらも心根は穏やかで優しい、いや、片や臆病なだけかもしれないが、他者に容易に敵意を向け

ぬというのは、この異様な世界に置いて愚かでかつ尊い美徳だろう。

　触手の支えるホワイトボードに記されているのは、簡単に略された、たぶん地図。
　世界の壁の崩壊、そんな噂が流れ出した街、いわば、ハジマリの街だろうか。
　その少し行った地点に。

「…来たルートにちょっとかすっとるが、桜か。さっぱり気付かんかったが…」
「なんか、その日の夜にしか咲かないんだってさ。他にも小さいのが生えてるらしいけど、きっつい

地点でしか確認できないって。ちょうど、俺達が避けてきたあたり？」
「そんな話、どこで仕入れてきたんや？」
「街で、買物ついでー。この時期の名物みたいなもんだって言ってたけど」
「さすが唯一の人型や、情報収集はお手のものっちゅーやつやな。よう働くようになったやないか。

よ、メイドの鏡」
「メイドって言うな！」
　誉めてやったというのに噛み付くとは、無礼なメイドや。
　教育が足りんらしい。

「…夜だけ、なぁ…？」
【…。】
　首を傾げているワタシにあわせたわけではないだろうが、触手もゆらぁりと揺れた後にかくりと先

を曲げている。
　疑問符を浮かべているのだろうか。

「さすがに今から戻るんは無理やな」
「だな、こっから先もまだまだ厳しそうだし」
【残念、です】

「せめて、もうちょい詳しい話を聞いて慰めにしたいところやけども、さて…」
「おい、その格好で聞き込みとか。どんな無謀なチャレンジャー志望。むしろ死亡。考え直せ。まだ間に合う」
「…メイド。お前、最近ホンマに、調子こいてんな。びびらすぞ」
「どうぞいってらっしゃいませ」
　はて、メイドのお見送りって土下座やったかな…。

　戻るのは無理なれど。
　近くを通っているというのは、行幸。

　指から指を生むことも、指から人を生み落とすことも容易くあるこのカラダ。
　足のない代わりに、血を舐めるように地を這うこのワタシ。
　無駄に世界を右往左往するのは、足のあるヒトのすること。
　境界を超えて尚、我が身はどこにあろうとも、ワタシの、
　目で耳で鼻で舌で髪で頬で腹で足で手で指で爪ですべてすべて、
　ワタシのイノチ。

　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

　遠く。
　とはいえ、世界を越えぬ程の距離。
　そんなものは、手が届く範囲と同じこと。
　乾ききった地に残された乾ききった血の一つ。
　もぞりと、芽吹いて、メ吹く。
　瞼がない代わりの瞬膜をぱちくりと。
　月はいずこか、星は見えるか。
　ぎょろりと、見上げたそこに。
　満天の、春。

　我が子、我が娘、我が妹、我が身のミコトよ。

　遠く。
　世界を越えるだけでは足りぬ程の距離。
　手どころか声すらも届かぬ、我が血の一つ。
　芽吹いた、眼。
　お前はどこでどんな桜を見上げているのか。
　お前という一片が還る日に見る桜は、どんなに美しいだろうか。

　それだけで、いつかのその日を思うだけで、ワタシはそれまで生きられる。

　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

「…ぉ？　おかえりー。って、顔押さえてどうした。酔っ払ったか？」
「なんでやねん」
【冷やします、か？】
「どこもぶつけてないて」

「それじゃ、何だよ？」
「ほぅ。知りたいか」
「おやすみなさい」
「悪い夢見るで」
「ぁーぁー、聞こえないー！！」

　失礼なやっちゃな。
　寝床に潜り込み、背中を向けて丸まったメイドを片目で眺める。

【…。】
「朝には何ともなくなるよ」

　夜にだけ狂い咲く桜は、朝には散ると言う。
　花見を終えたメは、花もつけずに散るだろう。

「ほな、触手君。よい夢を」
「なんでそっちは普通なんだよ！？」
「ほな…メイド、よい、夢を…」
「にやぁってのをやめろ、いや、やめてください、やめろよぅ…」

　二度寝ならぬ、二度目の泣き寝入り。
　悪い夢というならば、この世界がそうだろうに。
　夢に怯えるというならば。
　この世界もさほどに、悪くはないのだろうか。

　そんなことを思えるほどに。
　瞼の裏側だけは美しい、そんな一夜だった。