ENo.736 R，E．D．

　通信回線の健全性　89％
　ただし、通信先の世界観によって品質が低下する場合があります。

　意識の向こうで、何やら喧騒が聞こえる。それはとても大事なことなのに、なぜか内容が理解出来ない。ほんの少しだけ知っている言語でされている、隣のテーブルの会話に聞き耳を立てているような、そんなもどかしさがあった。
　暑い。彼は、かつての任務で砂漠に潜伏したときのことを思い出していた。まるで蜥蜴のようにして砂に潜り対象を待ち構えたのだ。そのあまりの不快さに、彼は小さく呻いて身じろぎした。
　聞こえていた声が大きくなった。それは明らかに自分のことを話している。最も危険な時間は既に過ぎたのか、聞こえる声から感じられる切迫した様子は、先ほどに比べれば幾分和らいでいた。
　重い瞼をどうにかして引き上げる。大きく揺れる炎がまず目に入った。そして、自分を取り囲むようにして見下ろす複数の人影。その人影たちの耳の形が、人間のそれとは異なることを確かに確認して、“涼風”は小さく安堵の息を吐いた。彼が発動させた──そう、意図的にそれがある場所を通過したのだ──鳴子の罠は、しっかりと機能してくれたらしい。エルフたちに侵入者を告げるそれは、彼の存在をエルフたちにとって無視できないものにしたようだ。
　森の中、恐らく先ほど彼が意識を取り戻した場所からさほど遠くもないところだろう、同じような少しだけ開けた広場のような場所だった。中央では焚き火が焚かれ、小さな鍋が火にかけられている。似たようなマントに身を包んだエルフが三人。二人は彼の様子を見、もう一人が鍋の面倒を見ている。どこかから甘い匂いが漂っているのは、彼らがよく用いるという膏薬の匂いだろう。その匂いを“涼風”は“学習”の中で嗅いだことがあった。

「意識を取り戻したぞ。」

「幸運な人間だな。」

　彼らがエルフ語でやり取りしている。それは非常に小さな囁き声で、ともすれば聞き逃してしまうような、葉ずれの音のような会話だった。だが、彼らのそのほんの僅かな会話だけでも、非常に洗練されていて美しいと言われるエルフの言葉が、実際にどれほどのものなのかが分かった。それは、人間である“学習”の際の指導役が口にしたエルフ語とは、似ているようで全くの別物だった。

「お前は運が良いようだ。森の外まで運んでやろう。それまでもう少し、眠っていることだ。」

　自分を見下ろしていたエルフの一人が、自分に向かってそう語りかけた。エルフ語だけでなく、この地方で使われている地方語を、彼は流暢に使いこなしていた。無論、“学習”によってほぼ完璧にエルフ語を習得させられた“涼風”にとって、彼らが自分たちの言葉で語りかけてきても問題はないのだが、実際一般的な探索者であればそこまで彼らの言語に堪能であることは稀だ。だから、自分に向けて発せられたその言葉だけを理解したように“涼風”は頷いて、ようやくそのエルフの顔を見た。

「長に、渡せ。」

　自分が握りしめていた羊皮紙を、押し付けるようにしてその男に差し出す。このまま、ただで人間の世界へと戻されてしまっては仕事にならない。あれだけ酷い怪我を負わされて放り出されたというこの舞台を無駄にする訳にはいかない。彼らエルフの代表である“長”という言葉と、“渡す”という二つの単語を、何度か繰り返しながら、そのエルフに羊皮紙を押し付けた。少しだけエルフ語を理解しており、まったく意思疎通が不可能ではない探索者。どこかからこの森への侵攻計画を手に入れてしまい、そのためか命を狙われてどうにか森まで逃げてきた男。今の彼の役柄はそんなところだろう。自分なりに組み立てた役柄に矛盾しないように注意しながら、“涼風”は羊皮紙をそのエルフにどうにか手渡した。この“通行手形”の内容だけでもエルフたちに伝えておく必要がある。それでなければ、わざわざここまでされて死にかけた自分が報われないというものだ。上の人間は、そのままエルフの村まで入り込めると考えたのかも知れないが、そこまで彼らの門戸は開かれていなかったようだ。それであれば、重要な情報を持っていて、エルフたちのために何かしらの役割を演じた人間である、という印象だけでも植えつけておかなければならないだろう。まだ時間はある。この書類が本物なのか、もしくは偽造されたものなのかは分からないが、どちらにしろ数か月単位での任務なのだ。
　彼の状態と外見から判断した書類の重要度、他にも様々なことを判断したのだろうが、エルフはその書類を受け取ってマントの懐へと入れた。どうにか、最低限のラインは越えたようだ。“涼風”は安心したように大きく吐息を漏らすと、再び意識を失った。

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　次に“涼風”が意識を取り戻したのは、簡素な山小屋の中だった。この地域によく見られる木こりの住まいのようだ。自分は寝台に寝かされており、傍らには水差しと冷めたスープの入った皿が置かれている。丁寧に包帯が巻かれており、傍には自分のものらしい装備一式も置かれていた。辺りを油断なく伺い、外から聞こえてくる乾いた音を確認する。この小屋の主は外で薪を割っているところのようだ。扉が一つ、その向こうにも人の気配はない。それからゆっくりと身体を動かし、傷の具合を確かめた。さすがにエルフの治療術とはいえ、まだ傷が完全に塞がった訳ではないようだ。引きつれるような痛みとともに背中でじっとりとした感触がにじみ出てくるのを感じる。だが、動くのに支障が出るほどではなくなったようだ。無論、命の危機も脱してのことなのだから、彼らの技術は大したものだろう。窓から差し込む光は穏やかで既に傾き始めている。夕刻近くらしい。外には黒々とした影になりつつある巨大な森が見えていた。
　薪を割る音が止み、外につながっているだろう扉が開いた音を聞いて、“涼風”は少しだけ緊張を解いた。今の状況からすれば、この小屋の主は友好的だと言って差し支えないだろう。ここから色々な情報を集めて再び森の中へ向かうための準備をしなくてはならない。一人の、そこそこに腕の立つ探索者として、だ。

「おう、気が付いたか。あんた、運が良かったな。」

　部屋の扉を開けて、寝台に身を起こしていた“涼風”を見ると、入ってきた男はそう声をかけた。長身に立派な体躯、日焼けした顔にひげを伸ばしている。いかにも木こりの典型のような中年の男だった。

「あぁ、あんたのお陰で命拾いしたようだ。礼を言う。」

　微かに笑みさえ浮かべて、“涼風”はそう言うと男に頭を下げた。それを見て男が首を振る。

「いや、あんたを助けたのは俺じゃない。……覚えていないか、あんたを助けたのは“森人”、つまりエルフのようだな。
　昨日の朝だが、そこの森の際のところに倒れていたあんたをここまで運んで、包帯は変えた。だが、既にあんたの傷は手当てがされていてな。そこの商売道具もまとめて脇に置いてあった。治療の様子からして、あんたはエルフに助けられたんだろう。」

「あまり覚えていないな……記憶が飛び飛びで曖昧だ。森の中に逃げ込んだ辺りまでは覚えているんだが……。」

　そう言葉を濁し、“涼風”は一般人の振りをする必要がある。痛みにも類稀なほどの耐性を持ち、たとえ死にかけていても意識を切り離して冷静に物事を観察できるのは、彼がそういう特殊な訓練を積んでいるからだ。だが、当然普通の人間にはそんな芸当は出来たものではない。

「何にしても、あんたにも礼は言わねばならん。助かった。」

　もう一度頭を下げ、足を下ろして立ち上がろうとする。そこでよろけて傍らの机に体重を預ける。無論、実際にはそこまで行動出来なくはないだけには回復しているのだが、まだ辛いのも事実だった。

「おいおい、何があったかは知らんがまだ動くのは無理だろう。そこまでして何かしなくてはならないのか？
　何にしても、まだ数日は動けんだろうな。」

　木こりの男がそう言って、“涼風”の脇を抱える。無理やりに寝台に戻されて、“涼風”は再び寝かされてしまった。さすがに日頃から肉体労働で森の中を歩いているだけのことはある。膂力だけで言えば自分よりも強いだろう。適度に負荷をかけて密かに男の力を推し量りながら、“涼風”は大人しく彼の指示に従った。

「済まんな。それほど迷惑はかけんが、動けるようになるまで数日世話になる他なさそうだ。」

　はっはっは、と大きな声で笑い、木こりは大きく手を振る。所作の端々から、純朴で表裏のない性格だということが見て取れた。

「あまり居座られても困るがな、まぁ困ったときはお互い様、という奴だ。とりあえず、もう少し休んでいるといい。食事を持ってこよう。」

　冷めた皿と食器を手に、木こりは立ち上がって部屋を出て行った。とりあえずは、彼から情報を集めなければならない。“涼風”はその算段を心の中で立て始めていた。

──十五日目〜“Plan”──