ENo.736 R，E．D．

　通信回線の健全性　93％
　ただし、通信先の世界観によって品質が低下する場合があります。

　穏やかな夢を見ていた。
　薄暗くはあるものの、暖かな色合いで揺れる蝋燭の炎に照らされた慎ましい食卓。年老いた男女が自分の右手に座って、男が目を瞑り静かに感謝の祈りを捧げている。自分の正面には同じように顔を伏せ、祈る若い女。
　暖炉の薪が小さく爆ぜる音と、男の口の中で呟くような小さな祈りの声以外に聞こえるものはない。食卓の上には、褐色のパンやスープといった、質素ではあるものの滋養に満ちた暖かな食事が並んでいる。
　いつのことだっただろう。あったかも知れなかった暖かで健康的な生活が、そこにはあった。日の出とともに目覚め、自然の中で一日働いて日の入りとともに家で食事を摂り、眠る。その単調な繰り返し。
　いつから自分はこうしていたのだろう。祈りの最中に何かに気付いたように顔を上げ、目を開けた自分がそこにはあった。他の三人は眼を閉じ静かに祈りを捧げている。まるで、短い夢から覚めたような現実感がそこにはあった。快い肉体の疲れと揺れる炎が作り出す柔らかな影、そして時折聞こえなくなるような静かで落ち着いた男の祈りの言葉が、ひととき微睡みを誘ったかのように。
　祈りが終わったのか、ゆっくりと男が組んでいた手を解いた。他の二人の女たちもそれにならったようにして緊張を解く。炎が作り出す曖昧な影の具合なのか、どの人物も表情は元より顔を覗うことも出来ない。
　男が何かを呟いた。祈りの続きのような、口の中で呟く言葉を上手く聞き取れず、聞き返そうとした。だが、喉が渇いて上手く声が出せなかった時のように、自分の声は実際の音にならずに掠れた意味のない呻きになっただけだった。
　三人がゆっくりと、同時に顔を上げる。まるで同じ動作で。
　それでも、どうしても顔が見えない。何かに急かされるような、怖れとも焦りともつかない感覚に突き動かされて、彼は椅子から立ち上がろうとした。だが、自分の意志とは裏腹に指一本も動かせず、椅子に縛り付けられているかのようだ。
　誰か一人でも良い、顔を確かめなければ。いや、そうじゃない。顔を見てはいけない。ゆっくりと上がっていく三人の顔から視線を剥がせないままで、相反する二つの声が自分の中で響く。男がまた何かを言うが、やはりその内容は聞き取れない。
　だめだ、このままでは。それだけがはっきりと、自分の中で警告を発している。だが、どうすることもできないまま、彼は三人の顔を血走った目で次々に凝視していた。
　ついに顔が見える。その時だった。
　薪の爆ぜる音が一際大きく聞こえて、蝋燭が吹き消された。見えそうになっていた三人の顔が、暖炉の炎の逆光になって闇に沈む。三人が同じようにして立ち上がった。思わず叫び声を上げようとしたが、やはり掠れた呻きしか自分の喉からは出てこない。暖炉の炎が揺らめいて、消えた。

「そんなものは、存在しなかった。」

　暗闇の中で、はっきりと響いた声。その意味も理解出来ぬまま、ようやく自由になった身体で、出来る限りの叫び声を絞り出す。
　だが、それさえも次第に遠くなり、小さくなって消える。後には、冷たさだけが残った。冷えていくのだけが、感覚すべてで感じられる。皮膚だけではなく、何もかもが。
　冷えていく。

　　　　　＋　　　　　＋　　　　　＋　　　　　

　さらに叫び声を上げようとして、“涼風”は目を覚ました。夢の中でそうだったように、自分が上げた小さなうめき声で目を覚ましたのだ。声の限りに叫んだつもりだったのだが、自分の喉から漏れているのは力ない掠れた風の音だけだった。
　周囲は暗い。ほとんど暗闇に満ちているといって良い。夜目に長けた彼でなく、普通の人間ならば鼻を摘ままれても分からない、という奴だろう。さらに、身体が冷え切っていた。頬が冷たいのは、土の上に自分が突っ伏しているからだろうか。それであんな夢を見たのかも知れない。どこか他人事のような遠い認識で、彼は自分のことを整理しようとした。
　“処分”されそうになり、襲ってきた同僚を二人手にかけた。そこで“颪”に背後から一撃を受け、さらに頭を蹴られて昏倒した。そこまでは覚えている。傷を確かめようとして、“涼風”は身体を捻ろうと力を入れた。入れたつもりだった。
　だが、力は入らない。小さく、乾いてくっついた何かが剥がれる音がしただけだった。切りつけられた辺りはそこだけが熱く、どうやら未だに出血しているらしい。もう一度、覚悟を決めてから気合いを入れて身体を起こす。どうにか肘をついて、少しだけ頭を持ち上げた。背中の傷だけでなく全身が痛む。それが限界だった。
　自分は森の中にいるらしい。目の前には大きな木が聳えていた。何とかそちらへとにじり寄ろうとして、自分が何かを握りしめているのに初めて気づく。羊皮紙らしい。おそらくは自分の血と、周囲の泥に汚れてしまっているそれを、今開いてみる余裕はない。
　木々の間から、微かに光が漏れているのは今が夜だからだろう。ほとんど明かりはないが、それでも訓練された彼の目は、辺りに様々なものがぶちまけられていることと、自分が見覚えのない、よくある旅装に着替えさせられていることにも気が付いた。
　そういうことか。はっきりしない頭で、その状況をどうにか整理しようとする。自分は“処分”されそうになった訳ではないらしい。おそらくは、これが“任務開始”なのだ。もちろん、あの襲撃を退けることが出来ない程度であったなら、そのまま“処分”されていたのかも知れなかったが。代わりはいない訳ではないのだから、そういうことも十分にあり得るだろう。
　どうにかして、自分が作り出して既に乾き始めている血だまりから、木に背中を預けるところまで移動した。辺りには、これまた見覚えのない、旅装に含まれる様々なものが散らばっている。それらのものから、与えられた“役”を想像した。どこにでもいるような、それなりに腕が立つ剣士、探索者だろう。どうにか姿勢が安定したところで、羊皮紙を傍らに叩きつけるように置いて、目の端で中身を確認する。三カ月ほど先の“作戦”についての重要事項がそれらしく書いてある。見覚えのある印はこの森に隣接する国のものだった。
　つまりは、これが“通行手形”という訳だ。だが、問題はそれをどうやって使うかだった。こういう状況でなければいくつか方法は思いつく。だが、今の現状では出来ることは少ない。恐らくは、彼ら森のエルフたちも、自らの縄張りの中で放置され、死ぬに任された哀れな探索者のことは気付いているのだろうが、その曖昧な可能性に賭けるのは危険過ぎた。何しろ、今自分は死にかかっているのだから。
　歯を食いしばり、辺りを見回す。誰が見ているか分からないから、暗闇の中で人間がやるように、乱暴に、緩慢にだ。何せ、自分は夜目が効いては困るはずだし、エルフたちはその逆だ。既に誰かに監視されている可能性もある。倒れ込み、自分が倒れていた獣道からはわざと外れて“涼風”は這い進み始めた。下生えの中をかき分けながら、折れていない右腕を使ってどうにか進む。“学習”が正しければ、この辺にも目指すものがあるはずだ。
　少し進んだ辺りでそれを見つけたが、“涼風”は一切構うことなくそれを突破した。植物の蔓で編まれた小さな罠。知らない者が見ても、枯れた蔓がその辺りに落ちて引っかかっているだけにしか見えないようなそれは、それでも確かに彼が探していたものだった。それを引っかけながら、それでも気にした様子を見せずにそのまま“涼風”は当てもなく這い進み続ける。自分がかき分ける草の音の隙間から、確かに彼方で軽やかな、乾いた木がお互いにぶつかる音を聞き分け、少しだけ“涼風”は安堵した。
　これで、少なくとも運悪く見つけられないまま息絶える、ということはないはずだ。ゆっくりと、意識が遠のいていくのを認識しながら、“涼風”は今後どうするべきかを考えていた。

──十四日目〜“Wish”──