ENo.3330 ネイト・グラスウォール

――パシャパシャッ

「冷たっ」

差し入れた水流の冷たさに思わず手を引っ込めた。
ここフリストの街（と言うらしい、看板が出ていた）で一夜を明かして翌日、
その水は身を切るような冷たさで迎えてくれた。
お陰で、無理矢理覚醒まで意識が登っていく。

「……ふっ」

短い呼気の後、一気に両手をその冷水に差し入れ掬うと顔を洗う。
水が跳ねる音と同時、その肌を刺す痛みに指と顔全体に広がる。

「……ふぅ」

右手で顔全体を撫でた後、手を振って水を切る。
立ち上がって伸びをしながら空を仰いだ。
今日も冷えそうだ。

「さて、行くか」

一度頭を振ってから袖で顎を拭きつつ立ち上がる。
ポンプ式井戸から離れ、涅槃雪の待つ部屋へと向かう。
人が寄り添って生きる、街であることの最低の条件は水だ。
ココにはある程度の水が確保できる施設、ないし場所があると推測できた。

その場所は案外早く見つかり、
こうしてたまの贅沢をしていたのだ。
この荒廃した世界、水は貴重なのだ。
水筒に水を溜め部屋に急ぐ。

鍵を開けると彼女が寝台に腰掛けていた。

「…………」
「ただいま」

返事は無い。
そんな彼女の傍まで行き、
布の切れ端に先程の水筒から水を出して少し浸す。
袖を捲り上げると、腕を丁寧に拭いていく。

今日はこれからまた歩く。
身体全体はさすがに今からじゃ時間が掛かるし冷えてしまう。
でもせめて手足くらいはさっぱりとさせてあげたかった。

「これでいい、かな？」

腕や、足がひとつ終わるごとにまた軽く水を滲みこませる。
浸してるわけじゃないので絞るほど水を含んでないが
拭き取るには十分だ。
全て終わると、手足を下ろして再び袖を元に戻してあげる。

「コレくらいしか出来ないけど、気持ちよかったかな？」

頭に手を乗せて軽く撫ぜる。
長旅で満足な手入れも出来ないのに、
雪の髪はしゃらしゃらと鈴が鳴るような音を立てた。
それはまるで……

「……いや、そんなことはないか」

髪に沿って頬まで撫でながら、一人そんなことを言った。
その時、彼女の耳が指にかかった。

「……あ」

艶のある黒に一角だけ飛び出た白。
その周りが黒いからだろうか、彼女の肌の白さが特に際立つ部分だと思った。
その名の通り、粉雪のようにきめ細かな白。

彼女の耳はそれだけでなくても特徴的だ。
普通の人間よりも、少し……いや、かなり尖って長い。
エルフ程でもないが、それでも普通に出していたらかなり目立つ。
だから、あまり目立たないように、時には隠すようにしていたのを思い出す。
そこまで詳しくは聞いていないが……負い目があるのだろう。
その様子はちょっと変わってる自分を不思議に思い嫌がると言うよりも
ハンディのある者が其の部分を必死に隠しているのに近い気がした。

「……フフ」

だからだろうか、俺は彼女の耳が出てる姿が結構好きだった。
別に耳がそこまで特別好きって言うわけじゃないが
彼女の弱い部分に触れられたような気がしたのだ。
そして、それを許されている、そんな気がしたから。

耳を人差し指で其の尖った尖端までなぞる。
端まで行くと其の先をつまんで親指の腹で内側を撫でた。
すると、雪は首をすくめるようにして少し身を捩る。
どうやらくすぐったかった様だ。

「はは、ゴメンな」

耳から手を離し、また頭に乗せる。
こういった緩い反応なら何とかあるのはまだ救いがある。
まぁ、コレも反射のうちなんだろうけど。
それでも、彼女が何かしてくれた……と言うだけで俺は凄く嬉しかった。

『もう、そんな風に触らないで下さい。恥ずかしいです』

まるで、そんな声が聞こえるような気がして。

――ズキッ

「？……よし、もっかい汲み直したら出るか」

手を離すともう一度水を汲みに外へ出る。
にしても、今背中辺りに変な傷みがあったような。
変な体勢で寝ていたから、筋をおかしくしたんだろうか？
軽く肩を動かしながら確認するが特に何もない。
まぁ、問題がないなら良いか。

「よ、ゆっくり休めたか？」

街の出入り口に着くと兄が手を上げた。

「お陰さまでな」
「そうか、そりゃーよかったな。にしてもココの料金はたっけーな、一晩どんだけすんだよ」
「えっ」
「えっ」

タダだったよ？

「金かかるようなところなんてなかっただろ？セルフだったし」
「え、そんな馬鹿な」
「……おいくら？」
「いや、コンくらい？」

指で教えられた額は……結構な額だ。

「俺ら行った所はなんかうち捨てられた宿泊所みたいな感じで、自由に訪問者が使ってたぞ」
「まじで！？俺らもそっち行けばよかったー！？」

まぁ、同じ地区でも店が違えばそんなモンだよね。
というか、ちゃんと商売してる所あったのか。
基本的に、ここの住人は流れ者とは干渉せずに居るスタンスだとばかり思っていた。
なので、商店すらも無くこれからどうするか、といった所だったのだ。

「はぁ、叫んだら疲れたわ。とっとと買い物済ませようぜ、そっち良いのあった？」
「いや、全く……むしろ店すらなかったが」
「え、んじゃこっち側に基本人が集まってたってことか」

兄は自分たちが居た方を指す。
どうやらそうとしか言いようがない。
俺らが居たほうにはあまり人自体が少なかったのかもしれない。

「それじゃ、行ってみるか」
「ああ、どうだった？」
「どうもこうも……なぁ？」
「ちょっと、流石にコレはって感じです」

あの妹がここまで言うのか。
と思ったが、着いて納得だった。

「あー、なるほど」
「な、高いだろ」

そう、ドレもコレも単価が凄い高かったのだ。
とはいえ、タルタスも似たようなものだったように見受けられる。
つまり、コレはこの世界全体の相場と言うことになる。

それと、タルタスと違う部分は

「……本？」

こんな物資の乏しい世界に珍しい物を見た。
本と言うのは基本的には高価なものである。
これが無いと飢えるわけでもないし
逆にあっても腹は膨れないし喉も潤わない。

「それなりにかかるな」
「本だしな」
「……斬撃の書？」

表紙を見る限り魔術や武術の実用書のようだけど。
実用書だとしても知識は増えどもすぐ実戦に使えるわけでもない。
一通り使えそうな技術の書物が揃っているようだがどれも手が出るような値段でもないし
すぐに役に立たないならと言う理由で諦めた。
個人的に、一冊でもあると今後暇な時間が潰せるんだが。
仕方ないか。

「どうする、またこっちで手を打っておくか？」
「……いや」

兄が指差したのは、タルタスを出るときに大量に買い込んだ食材たち。
よく分からない果実や野菜たちだった。
てか、これどこにもあるのな、この世界の特産か何か？
基本的に値段が０ＰＳなのが売りだが味や食品として、栄養の質はお察しだろう。
というか、実際まずい。

「今回は、こっちをいくつか買っていこう」

それは、ただ同然で売っているのよりは明らかに違う食材たちだった。
おいしそうかどうかを聞かれると、多分不味いんだろうけど。
それでも、タダで売っているものよりは幾分かお金を取られるので
そう言う意味で信頼は出来る。
見た目的にも明らかにこっちの方が質はよさそうだ。

「お、酒もあるのか」
「おにくもありますね……高いですが」
「肉はやめておこう、野菜と果実を中心にして……まぁ、酒が入っていてもいいけど」

以前の街ではお金など無かったからな、これらは全く買えなかった。
今は来る途中で襲ってくるやつらが持ってるからな。
動物まで持っているのは変な気がするが、まぁあいつら喋るし使ったりもするのだろう。

「決めたか？」
「んー、これとこれと……」
「今回は量を買えない分、急いで進まないとですかね」
「そうな」

妹の指摘通りお金を持っているといってもそれはやっぱり小金くらいで
大量に買い込めるほどの余裕は無い。
しかも、所持品の量的にもただの食材をストックに入れられるほど空きはないのだった。

「よし、これかな」
「ん、こっちも決まったわ」
「私もです」
「…………」

涅槃雪分の食材も選び、その分だけＰＳを置く。
フードで顔は見えないが、販売者の頭が小さく上下したように見えた。
これで完了だ。

「それじゃ、この先を見てみようか」