ENo.489 アイアンローズ

　日が地平線に沈んだ頃。いつものように開かれた夜営地の端で、アイリーは何事か作業
をしていた。膝をついた彼の前にあるのは、常に持ち歩いている鞄である。かなり大型の、
角張った旅行鞄だ。留め金の横に五桁のダイヤルがついている。
　黒い手袋に包まれた長い指が、ぱちぱちとダイヤルを回していく。かちん、と何かが外
れる音。アイリーはきょろきょろと辺りを見た。ハルは丁度見回りに出るところらしく、
何か準備をしている。外法之助はアイリーに背を向けた状態で座っている。今なら、誰も
見ていない。そう判断して、アイリーは鞄を開いた。
　中には何故か暗がりが口を開けていて、その奥に向かって梯子が下りている。アイリー
は素早く鞄の中に入り込むと（普通ならばアイリーが入れる大きさではないが鞄は変形す
らしていない）内側からぱたりと蓋を閉めた。

　硬い靴音を立てて、アイリーは梯子を降りていく。周囲はただひたすらに真っ暗だが、
慣れた道なのかアイリーは顔色ひとつ変えない。
　やがて、彼の右足が梯子ではなく床を捉えた。そのまま梯子の横の壁を手探りする。
　暗闇の中、指先が何かのスイッチに当たった。
　ぱちん。
　すぐさま、明かりがついて、アイリーの目の前に“部屋”が現れた。それを確認して、ア
イリーがほんの少し表情を緩めた。

　アイリーの旅行鞄は特別製だ。中は外見よりも相当に広い。元々『庭園』から支給され
る物品は妙なものが多いが、アイリーは支給された鞄を更に改造していた。
　中には三つ四つ部屋が用意され、アイリーはそれらを鞄の留め金に付けられたダイヤル
によってコントロールしていた。ある部屋を除いては、鞄の外から直接部屋に入ることも、
部屋の間を行き来する事も可能だ。
　今回アイリーが入ったのは、彼が居間代わりとして利用している部屋である。ここの他
に書斎代わりの部屋と物置代わりの部屋があり、そして――アイリーにとって、心の臓に
最も近い場所がある。
　アイリーは大股歩きで居間を横切り、書斎に入った。その更に奥、無数の本棚の向こう、
黒いドアがある。その前に立って、息をつく。
　ドアは無骨な鉄製で、磨かれてはいるが何となく錆びた匂いがする。窓も装飾もなく、
真鍮でできたドアノブだけが眩しい。ドアノブには雁字搦めに鎖がかけられ、その上から
大きな錠前が三つもつけられていた。
　ここは鞄の中でも最深部にあたる場所だ。外からは持ち主であるアイリーでさえ直接入
ることはできない。まず居間に入り、居間から書斎を抜けて初めてこのドアが出現する。
それから三つの錠を外してようやく入れる。
　アイリーは手早く錠を外すと、ドアノブに絡まっていた鎖を解いた。重い音がして、ド
アが開く。その隙間からアイリーは身を滑り込ませた。
　中は相変わらず暗かった。それなのに移動に不自由しないのは、あちらこちらにランプ
が置かれているからだ。アイリーが側を通ると勝手に灯りが入る。ランプは一つ一つが小
さいので、足元を照らすだけで精一杯だ。頭上には果てしなく闇が広がっている。天井は
かなり高いようで、アイリーの足音が反響する。
　そして部屋の中空に、無数の試験管が浮かんでいる。ステンレス製の蓋で閉じられたそ
の内部には、ランプに照らされて光る赤黒い液体が入っている。柘榴石を溶かしたような
深い赤だが、液体はどろりとして粘り気があり、濁っている。
　アイリーは部屋の中ほどまでやってくると、少し離れたところにある試験管に向かって
手招きした。音もなく、滑るように、試験管がアイリーの側に引き寄せられる。
　それを手にとって（まるで恋人の肌にでも触れるように優しい手つき）アイリーは目を
細めた。鈍い鋼色の瞳が恍惚の色を見せる。黒い手袋を嵌めた指で、試験管に貼られたラ
ベルを撫でる。
　――ああそうだ、これは少し前に行った世界で、現地の原生生物から採取したものだ。
緋色の毛並みの美しい、大きな野牛だった。複数の金の角を持っていて、現地でも神の化
身と言われていた。一緒に調査に行った連中が偶然生け捕りにしていて、そのどさくさに
紛れて失敬した。
　ラベルを撫でるとその時の情景がありありと浮かび上がってくる。アイリーは思わず目
を閉じ、ため息をつく。何という充足。
　アイリーは、血液という存在に取り憑かれている。
　飢えに似た衝動を、血液という物質に対して感じている。
　とは言っても、アイリーは血を飲みたいとは思わないし、血を見て興奮を覚えたりもし
ない。
　ただ、充たされる。
　アイリーの中ではいつも何かが渇いていて、血液を見ると少しだけそれが和らいだ。
　自分の中を満たしているのも、自分に呼吸を許しているのも血液なのだ。そして皆、例
外なく血液に生かされている――そう思うと背筋がぞくぞくした。
　だが一方で、多すぎる血液には眉をひそめた。垂れ流されているのを見るとこう思うの
だ。「なんてもったいないことをするのだろう」と。そしてこうも思う。「あんな量では
自分の手に負えない」と。
　アイリーは、血液に対して羨望とも畏怖ともつかぬ感情を持っていた。
　血液には何か得体の知れない力があって、それが自分達を生かしているのだと、考えて
いた。
　だから多すぎる血は大きすぎる力を思わせ、アイリーの身を竦ませた。それに溺れきっ
てしまうのは流石に贅沢が過ぎるし、僅かながら恐怖も覚える。アイリーが試験管一本分
しか血を欲しがらないのはそのせいだ。自分の目と手が届き、自分を保っているのにはこ
れぐらいで丁度良い。
　アイリーは懐から二、三本の試験管を取り出し、宙に浮かべた。最近採血したものだ。
大半が襲ってきた動物から採ったものだが、街にいるときにそこの住人を適当に騙して手
に入れたものもある。最近はあまりここに入れなかったから（外法之助やハルの目の前で
ここに入るのは気が引けた）気が散って仕方なかった。
　ランプに照らされて、無数の試験管がきらきらと光る。暗がりに浮かぶそれらは星に見
えなくもないが、硝子の奥には緩やかに凝固しつつある血液が詰まっている。試験管には
血液の凝固や劣化を防ぐ仕組みが施されているが、完全ではない。古い物はすっかり駄目
になっているが、アイリーは気にせずこの『血液庫』に入れっぱなしにしている。
　アイリーは床に座り込み、それらの赤黒い星を、充足しきった面持ちで見上げていた。
　酒ではない何かに酔ったように、ぼんやりと、眺めていた。