ENo.3195 ありす＝ブランク

見えない何処かに、手を伸ばす感覚。

何もつかめない――否「何も無い世界」に手を伸ばし……
ゆっくりと五指を動かす。

当然……触感も、温度も、五感の何もかもが応答せず、
ただ「指を動かす感覚」だけが、自分の中で反響する。

「…………」

何も無い世界に、意識から伸ばした糸を張る。

赤い糸、青い糸。

黒、黄、緑、白、紫、橙、灰、茶――……

多種多様な色彩を備えた糸が世界を縦横無尽に走り――
何も無い世界に、色とりどりの「世界」を描き出していく。

上下の無い世界に、空と地面を。

左右の無い世界に、街と自然を。

前後の無い世界に、人と社会を。

何色でもなく、何物でもない。
ただあるだけだった世界に「形」を与え――……

「……っ！」

そこで、糸が唐突に切れる。

一つの綻びは、直ぐ様二つに増え。
二つは四つに。四つは八つに。

瞬く間に全体に伝播した綻びは、
描き出されていた「世界」を食い荒らし……
気がついた時には色彩豊かな世界は崩れ去り、
元の「何も無い世界」が、また視界を埋め尽くしていた。

「やれやれ……また失敗かぁ」

嘆息一つ。閉じていた目を、ゆっくりと開く。
視界に映るのは、何処に通じているとも分からない街道、
その一角に設けられた小さな広場。
たいして広くないそのスペースには、
あちらこちらにゴミともつかない何かが積み上げられており……
普段、このスペースがどう使われているかを、無言で示している。

「中々、上手くいかないものだね？」

視線を手元に――手に持った、一冊の本に向ける。

それは、何度も何度も読まれた本に特有の、
僅かにくたびれた様な雰囲気を纏う、少々古びた本だった。
だが……たっしりとした確かな重さと、暖かな紙の手触り。
そして、僅かに色あせてはいるが、
連ねられた文字や図、挿絵の姿を明瞭に示すページの連なりが、
この本が大切に扱われてきたことを示していた。

「…………」

ゆっくりとそのページを開き、内容に目を通す。
自分には詳しくは理解できないが……書き連ねられた内容は、
魔法の理論、その初歩的な内容に関すること、らしい。

「……やっぱり、無理があったかな−？」

小さく、息を零した。

召喚。

世界の壁を越え――異界のモノを呼び出す技術。

多少の違いこそあるものの、この世界に来ている者の多くが、
この技術によって「壁」を越え、この世界へと呼びだされている。

現在同行している集団のメンバーも、
何人かはこの世界に落とされ、呼ばれた者であり、
その多くが、元の世界へ帰る方法を探しているという。

自分も似た技術を使うことは出来るが……
この世界に「呼ぶ」「呼ばれた者を返す」ことは出来ても、
意図的に「送り出す」ことは出来ない。

だが――

もし、誰かの……ファングさんや、アルミナが来た世界から、
何かを呼び出すことが出来たならば。
それを「呼び出し」「送り返す」ことで……
世界への帰り道や、それに関わる何かが分かるのではないか？

そんなわけで、ファングさんから借りた本を頼りに、
召喚を試みているわけなのだが……

「……まぁ、知りもしない世界から、
　本からの想像だけで呼び出すっていうのは、無理があるかなぁ」

例えるなら――餌のついてない釣り針をを海に放って、
魚が掛かるのをひたすら待つようなものだ。
成功する確率は非常に低い上に……
何が引っかかるか分かったものではない。

ため息をついて、もう一度目を閉じて――

「……ん？」

違和感を感じた。

それは、ほんのささいな……小さな、違和感とも言えない、何か。

だが、それは段々とその姿を大きくし――

「……っっ！？」

不意に襲いかかってきた圧迫感に、膝が崩れそうになる。

自分の中に、自分以外の「何か」が入り込んでくる違和感。
泥の様な不快感と嫌悪感が身体の中を這い回り、
内側から肌を押し上げ、あるいは肉をこねくり回す。

「……っぐ、この……何が……」

口にして、しかし、可能性は一つしか思い当たらない。

――召喚だ。

おそらく、先程の不完全な召喚に「何か」が引っかかったのだろう。
肉体が出ていない所を見ると、おそらくは魂――意識だけが召喚され、
肉体の無いままに呼び出されたそれが、
手近な器として自分の身体に乗り移ろうとしているのだ。

もっとも、あんな召喚でも引っかかった幸運を喜ぶべきか、
召喚対象に乗っ取られかけている不幸を嘆くべきかは分からないが……

「んっ……くぅっ……この！！」

とっさに、自分の別の身体を依り代として呼び出し……
自分に取り憑こうとしている魂を、強引に封じ込める。

とたん、身体の内側で暴れていた不快感が収まり、
思わず膝をついてしまう。
ぜいぜいと荒く息を吐く視線の先で――
召喚された魂の「器」になった人形が、
音も無く、その姿を変貌させはじめていた。

頭の長髪が短くなり……その代わりという様に、
頭部からはゴムの様な、てらてらと光る四本の触手が伸びてくる。

肩口から指先にかけての肌が濃い紫色に染まり、
末端に近づく程に肥大化していく。

腰からは長い尾が生え……二股に分かれたそれが、
うねうねと蠢く。

そして、白かった髪が紫色に染まり……額が横一文字に裂けると、
そこにぎょろりと動く三つ目の瞳が生まれる。
濃い隈を乗せた深紅の瞳が気怠げに開き……
三つの赤が、こちらをぎろりと見つめてくる。

「……さて、あなたは、どちら様かな？」

こちらのといかけに、召喚された何者かは僅かに首をかしげ――
スペアの中でも、大人型のものを依り代に用いた為か、
頭二つ分は上から視線が注がれてくる――
やがて、小さく口を開いた。

「……アルアン。アルアン・ペチカ」

それが……奇怪な召喚者との、最初の出会いだった